法隆寺とパルティアンショット

 法隆寺の宝物殿に収蔵されている「聖徳太子の錦」と伝えられる国宝「四騎獅子狩文錦」には、ペガサスに乗った騎手が振り向きざまに獅子を射る図柄が描かれていますが、これは「パルティアンショット」と呼ばれる騎馬による戦術で、パルティア王国(紀元前247年頃 – 226年)と対峙したローマ帝国によって知られるようになりました。
 
 パルティアに限らず遊牧騎馬民族=匈奴スキタイなどもこの戦術を使ったようですが、記録に残るのがパルティアからなので、おそらくパルティアがこの戦術を考案したものと推察されます。
 
法隆寺伝来国宝「四騎獅子狩文錦」復元完成
染司よしおか工房だより
 

 

 


パルティアンショット – Wikipedia

 

パルティア – Wikipedia
 
成 立

紀元前3世紀中頃にはセレウコス朝の支配力が衰え、紀元前250年頃にその支配下からバクトリアが独立した。これとほぼ同時にパルティア地方ヒュルカニア地方では現地の総督 (サトラップ)であったアンドラゴラスがセレウコス朝より独立していたが、パルニ氏族を中心とした遊牧民勢力が、アルサケス1世(前247年頃 – 前211年頃)と弟のティリダテス1世を指導者としてアンドラゴラスの勢力を放逐して周辺一帯の支配権を得た。この年代はおおよそ紀元前247年ごろと推定されている。アルサケス1世とティリダテス1世の関係には様々な説がある。

 
 法隆寺…というか、飛鳥京の造営に多くのペルシャ系職人(技術者)が携わっていたことが検証されていますが、そうした渡来職人から献上されたものなんですかね?いずれにせよ飛鳥時代にペルシャ系の渡来民が大和の地を踏んでいたことは確かです。

 で、余談?になりますが、聖徳太子のいとこに当る蜂子皇子の御尊影が東日本大震災の復興を願って昨年公開され、そのお姿を拝見すると…

い、色が黒い…。

…と驚くのと同時に容姿も人間離れ?していて…

いくらなんでもコレはないだろw!

…というのが正直な感想です。崇峻天皇の皇子なワケで、やんごとなきお方なワケでしょ?多少盛って描いてもイイくらいで、これじゃ「逆盛り」…悪意すら感じますw。
 


羽黒山 蜂子神社御開扉

 
 容姿の件はアレとしても、「肌が黒い」と言う点はおそらく真実なのではないか?と思え、そうすると父親である崇峻天皇もガングロだったの?という話になり、崇峻天皇が暗殺されたのも「異民族の血を引いていたから」…という疑惑も。
 
崇峻天皇 – Wikipedia
 
蜂子皇子 – Wikipedia
 
 天皇暗殺という一大事に関わらず朝廷に動揺が見られないのは、「排除されて然るべき」という暗黙の了解が出来上がっていたとも考えられ、その理由として…

異民族の血を引く天皇

…というということが一見して分かる=肌の色が黒い…というのがあったとしたら?そして蜂子皇子も同様に肌の色が黒かったので疎んじられ…

暗殺を恐れ東北に逃げ延びた

…と。

 蜂子皇子の兄の穴穂部皇子も、腹違いの兄、敏達天皇の未亡人…後の推古天皇に狼藉を働いたことが原因で暗殺され、崇峻天皇の男系は途絶えてしまうワケですが、これらの一連の出来事が、朝廷から異民族の血筋を排斥する(少なくとも外見上)ことにあったとしたら?と、妄想が膨らみますw。

 そしてそれに根拠?を与えてくれるのがペルシャ系渡来民の存在で、蘇我氏は渡来民の監督の様な立場にあり、当然蘇我氏一族は渡来人と接する機会が多かったハズ。で、もし?崇峻天皇の母親=欽明天皇の皇后である蘇我小姉君が、色黒の渡来美青年とXXして崇峻天皇を身篭ってしまったとしたら?

 ま、あくまで妄想です、妄想w!
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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