「仮面の忍者赤影」の裏読みw!

 現在50歳以上の方であれば、子どもの頃にTV放送されていた…
 
「仮面の忍者赤影」
 
…を記憶に留めている人も多いのではないかと?
 

 
 白影さんの凧に乗りたかったわw!という話はアレとして、「赤影」は全ストーリーが三部で完結する構成で、第一部の敵は「金目教」、次が「卍党」、最後が飛騨の忍者を倒して忍者日本一の座を狙う「魔風」の忍者です。
 
あしたはきっと特撮日和
 
 設定をザックリ解説すると、第一部の「金目教」は戦国時代の「カルト教団」で、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の依頼を受けた飛騨の忍者「赤影」たちは、日本征服を企てる「金目教」と闘うことになり、主な戦闘相手は金目教の教祖、甲賀幻妖斎(忍者)が率いる「霞谷七人衆」という忍者集団です。
 


甲賀幻妖斎

 第二部の「卍党」は、第一部で死んだはずの幻妖斎が実は生きていて、新たに立ち上げた「卍党」で巨大なエネルギーを秘める「ゼウスの鐘」「サタンの鐘」「マリアの鐘」を手に入れ、懲りずに日本征服の野望を達成しようという計画を、今度は織田信長の指令を受けて赤影たちが阻止するもので、第二部の戦闘相手は「根来忍者」になります。
 


卍党

 
 そして第三部(完結編)は、忍者同士の覇権争いになり、「飛騨忍者」を葬り去ろうとする「魔風忍者」と闘うことになります
 


魔風雷丸

 で、最近「紅卍会」だとか…「大本教」だとか…満州国建国の影で暗躍?していた団体の存在を知り、その上で「赤影」を再検証すると奇妙wに重なることに気が付き…
 
もしかしてメッセージだったのか?
 
…などと思った次第です。はい。
 

 
 ま、妄想の類と受け流してもらって構いませんが、第一部の「金目教編」から分析?すると、「金目教」とは「大本教」の母体とも言える「金光教」を示唆しているのではないかと?
 
金光教 – Wikipedia
 
 で、大本教の開祖「出口なお」はそもそも金光教の布教者で、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が娘婿になり設立されたのが「大本教」です。
 
 となると?「大本教」≒「紅卍会」であれば、赤影のストーリー(「金目教」⇒「卍党」)と同じで、「金光教」⇒「紅卍会」(大本教)というラインが重なりますw。
 
こ・・・これわっ!?
 
…ということで、「赤影」の原作者はそれを知っていたワケですかっ!?
 
 

満州で捕らえられた出口王仁三郎(左から二人目)と、合気道創始者の植芝盛平(左から三人目)
 
 そこで「大本教」の周辺を調べてみると、イロイロ興味深い事実があります。

 先ず「大本教」の「大本」である「金光教」の他にも幕末の三大カルト宗教として、「黒住教」「天理教」が挙げられます。
 
 一番古いのが「黒住教」で1814年から。次が「天理教」で1838年から。そして「金光教」が1859年からになります。
 
 Wikiによると、「黒住教」は天照信仰のようですが、いっぽう「天理教」の…
 
人間の身体は神様からの「借り物(仮物)」
 
…という教義には、どこか「マニ教」の影響が感じられます。というか?「浄土信仰」=「あの世信仰」そのものに、「現世」に対して多かれ少なかれネガティブな側面は見受けられ、広義の解釈としては「マニ教」と同類と言えるかも知れません。
 
マニ教 – Wikipedia
 

国内にマニ教「宇宙図」 世界初、京大教授ら確認
 
 
 3世紀に誕生し、善悪二元論を教義として世界的な宗教に発展しながらも滅びたマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が国内に存在することが26日までに、京都大の吉田豊教授(文献言語学)らの調査で分かった。「10層の天と8層の大地からなる」というマニ教の宇宙観の全体像が、ほぼ完全な形で確認されたのは世界で初めて。
 
 マニ教は布教に教典のほか絵図も使っていたとされるが、絵図は散逸。宇宙観は教えの根幹につながるもので、今回の発見を公表した国際マニ教学会で「画期的」と高い評価を受けた。吉田教授は「不明な点が多いマニ教の解明につながる」と話している。
 
 吉田教授が「宇宙図」と呼ぶこの絵画は、現在国内で個人が所蔵している。縦137・1センチ、横56・6センチで、絹布に彩色で描かれている。仏教絵画との比較などから、中国の元(1271~1368年)、またはその前後に、現在の浙江、福建両省など江南地方の絵師が制作したとみられるという。日本に渡った時期などは不明。
 
 吉田教授らは、マニ教僧侶の特徴である赤い縁取りの入った白いショールを着た人物が描かれていることや、中国・新疆ウイグル自治区で見つかっているマニ教史料との照合などから、マニ教の絵画と断定した。
 
2010/09/26 17:40 【共同通信】

 

 
 で、「金光教」に話を戻すと、その教義というか特徴は「取次者」という存在にあることがWikiに書かれていますが、「神」と「信者」の間の仲介者とは…
 
ミトラ教
 
…におけるミトラスを連想させ、そこから「金光教」の「金光」とは、「金星の光」=「ルシファー」ではないのか?という憶測が生じます。
 
 ちなみに「空海」が持ち帰った「密教」とは、「ミトラ教」ではないのか?という説もあります。「密教」の「密」とは「ミトラ」を意味しているというものですが、調べるのに時間が掛かるので今回はここまでにして、い・ず・れ…。
 


牡牛を屠るミトラス

 そして第三部の「魔風」「風魔」を暗喩しているものだとすれば、そのバックに控えているのは「北条氏」…、詰まるところは「平氏系」の勢力であって、それに対して「飛騨忍者」なるものは実際には存在しませんが、「真田忍者」でもよかっただろうに何故?「飛騨忍者」を設定したのかと考えるに、「飛騨」=「美濃」であることに意味があるのではないかと?
 
 歴史的に見ると、美濃は古代から有力豪族が支配する地であり、「壬申の乱」の際には天武天皇も美濃の豪族である多氏に援軍を求めています。多氏は不明な点が多いのですが、同じ渡来系であったとしても平氏よりはるか以前に渡来し、ほぼ土着していた氏族と見られています。
 
 最後の第三部は、一、二部が「カルト宗教編」だとすれば、「忍者間の抗争」=「渡来氏族抗争編」ということになり、そして全編を通して「飛騨忍者」=「多氏」の末裔の活躍が描かれているということになります。
 
 で、最後に「幕末三大カルト」のひとつ、「黒住教」ですが、「金光教」「天理教」が後発の渡来人が持ち込んだ宗教に端を発するのに対して、先発の渡来人が持ち込んだ「太陽信仰」に端を発するものと言え、それ故?幕末期に即位していた孝明天皇に庇護されたのかも知れません。
 
孝明天皇 – Wikipedia
 
 た・だ・し、黒住教のHPに目を通すと興味深い符号があることに気が付きます。
 

黒住宗忠 (1780年 – 1850年)

 教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心があつく、20歳の頃には「生きながら神になる」という志を立てました。宗忠は「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩みました。しかし数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。
 
 死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。
 
 その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授てんめいじきじゅ」と称して、黒住教立教の時としています。
 
 以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。宗忠がその肉体を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850年)2月25日のことでした。
 
 宗忠の在世中に、現在の黒住教の基礎が築かれ、当時すでに数万の道づれ(信者)を擁していました。宗忠の昇天後、その生誕地であり住居があった現在の岡山市北区上中野を中心に、日本各地で黒住教の布教が広まっていきました。宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。
 
 皇室や公家のなかに宗忠に帰依きえする人が多く、孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得ていました。神位を非常に重んじた江戸時代において、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都・神楽岡に宗忠を祀った宗忠神社が建立されました。この宗忠神社は、建立からわずか3年後の慶応元年(1865年)4月に、孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(天皇が国家国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められ、その翌年の慶応2年(1866年)2月には、従四位下の神階を宣下されました。
 
 昭和49年(1974年)10月27日、都市化が進んだ大元(岡山市北区上中野)の地を離れて、黒住教は神道山(岡山市北区尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しましたが、大元には明治18年(1885年)鎮座の宗忠神社が現在もまつられています。

 
 以上の事柄を整理すると、教祖黒住宗忠は(1)冬至の日に生まれ…(2)34歳にして生まれ変わった…という2点がポイントで、冬至の日はイエス・キリストの生誕日であり、34歳はイエス・キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処せられた年齢であり、三日後に復活した(生まれ変わった)とされ、そこはかとなくキリスト教の匂いがします。(あと「大元」=「大本」とか?)
 
 「天照信仰」と「キリスト教」の「習合」したのが「黒住教」であるような印象を受けるワケですが、となると幕末の三大カルト?はどれも舶来の宗教の影響を受けていることになります。ま、「仏教」にしてもインドが発祥なワケですから?イチイチ目くじらを立てても詮無き事ですが、現実問題として現在安倍(歪)政権をバックアップしている「日本会議」に、幕末の三大カルトが関与しているとなると座視できません。
 
 ま、いずれにせよさらに掘り下げて検証する必要があります。たとえば?「隠れキリシタン」とはなんだったのか?「忍者」とはなんだったのか?そして「一向宗(浄土真宗本願寺教団)」織田信長に殲滅されたのか?等々…。
 
 
参照ブログ:

読めないニックネーム(再開版)

jiu-jitsumag
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

広告