聖武天皇と行基

 細かいことは抜きにして結果だけを見れば、行基は聖武天皇の命により全国に国分寺を建立し、仏教立国の礎を築いたというコト。

 以前、「多摩」の地名の由来について書いた際にも行基が登場したワケですが、川崎の荏原で発掘された寺の遺跡の瓦からは、行基がこの地を訪れる前に荏原には既に寺が存在し、後に聖武天皇に使わされた行基が寺を改修したらしい形跡が伺えます。

 全国に国分寺を建立するのは壮大な事業であり、カネも時間も人手もかかります。下手をすれば権力の衰退を招きかねないワケで、となれば?既に各地に存在する寺を国分寺に改修したほうが合理的であり、荏原の寺の瓦に見られる年代の違いもその痕跡ではないかと?

 聖武天皇の父である文武天皇の諡号=「倭根子豊祖父天皇」は、「豊国」=「秦王国」の祖父…つまり「国王」を意味しているように汲み取れるのですが、なぜか?息子の聖武天皇は国分寺を全国に建立し、「秦王国」の民を全国に散らした(入植させた)という可能性が考えられます。

 その伏線として、「役小角」の朝廷への反逆の嫌疑があり、文武天皇は役小角を捕らえて伊豆に島流しにしますが、2年後には大赦により故郷に戻ります。ちなみに役小角は修験道の開祖とも伝えられ、また、秦王国にある英彦山は修験道の盛んな地であり、役小角が秦王国と縁の深い人間だとしたら、役小角の反逆の疑いとは…

秦王国に反乱の疑いあり!

…という図式にも受け取れます。

役小角 – Wikipedia

 そこで秦王国を危険視した聖武天皇は秦王国を解体し、国民を全国に散らした(入植させた)という解釈も成り立ち、国分寺は全国に散らばった「秦氏」を監視する役割を担っていた…という側面も浮かび上がります。
 


行基図

 ただしそうだとすると、文武天皇の諡号が秦王国の国王をイメージさせるのが解せませんw。

 文武天皇は藤原不比等の娘、宮子を娶り、産まれた子が聖武天皇ですから、聖武天皇は藤原不比等の孫になり、その辺りを詳しく書いているのが下記のサイトです。

『教科書に載らない古代史』 – 関 裕二

 ザックリ解説すると、藤原(中臣)氏は朝廷の神事を司る一族であり、「神道」を敬う側なのに、聖武天皇は「仏教」に基づく国体を目指すワケですから、藤原氏にとっては反逆行為も同然。

 関氏は、朝廷内で反藤原派が台頭し、聖武天皇もそれに同調したのではないかということと、聖武天皇の皇后となった安宿媛(光明皇后)が大きく影響していると見ています。

光明皇后 – Wikipedia

 光明皇后は、皇族以外からはじめて迎えられた皇后で、「藤原麻呂天国」の朝廷とは価値観が異なる立場です。

 光明皇后の母、県犬養三千代(橘三千代)は、「壬申の乱」で天武天皇に加勢した県犬養大侶の子孫であり、謂わば「政略結婚」で強引に不比等の妻にされてしまいましたが、心は美努王を慕っていたのではないかと…。

県犬養氏 – Wikipedia

 で、関氏の…

聖武天皇は、天武天皇をお手本にした

…という見解に従えば、行基の存在も必然性を持ってきます。なぜなら行基は、天武天皇に重用された道昭の弟子なワケですからw。

道昭 – Wikipedia

 また、道昭と一緒に唐に渡った遣唐使節の中に藤原鎌足の長男、定恵が含まれ、Wikiによれば、重鎮の長男が出家することは「前代未聞」とのことですが、観方を変えて…

「人質」として唐に連行された

…とすれば藤原氏の評価もまた変わってきますが、それはまた後日検証しますw。

定恵 – Wikipedia
 


聖武天皇相関図

 まだ途中ですが、今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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