「マヌ」と「ノア」

新年あけましておめでとうございます!

 本年もよろしくおねがいします

 で、何が「おめでたい」かって、ひとまず…

「第三次世界大戦」

…が回避されたことを、素直に喜びたいと思いますw。

 ロシア軍機がトルコに撃墜され、どうなるものかとヒヤヒヤしましたが、トルコへの報復攻撃を自重したプーちゃんに感謝w

 もしアメリカが同じような目に遭ったら、かなりの高確率で報復に出ていたハズ。ありもしない「大量破壊兵器」を理由にイラクを攻撃するくらいですからw!

 一歩間違えれば「第三次世界大戦」のスイッチが入っていたワケで、そうなることを見越しての「特定秘密保護法」であり、「安全保障関連法」であり、「武器輸出三原則」の見直しなのか?と勘繰りたくもなるワケですが、ナンか…

世界を戦争に導こうとする隠された意思

…のようなものが働いているようで、不気味ですw。

 日本に限って言えば、「日本国憲法」が歯止めをかけているお蔭で、そうした流れに飲み込まれないようにギリギリで踏ん張っているワケですが、「憲法改定」で歯止めが無くなれば戦時体制にまっしぐらw。

 七月に国政選挙を控えている今年は去年以上に重要な一年になるワケで、ひとりひとりのよりいっそうの奮起が求められますw。

 ま、それはソレとして、今年最初にとり上げるのはインド神話です。『マヌ法典』という名前だけは知っている人も多いかと思いますが、「マヌ」とはインド神話に登場する「人類の祖先」であり、その「マヌ」の教えをまとめたものが『マヌ法典』。
 
マヌ – Wikipedia
 

マヌとノア
「宮本神酒男のスピリチュアルな冒険」 – より

 ヒッピー全盛の時代からバックパッカーに絶大な人気を誇るインド北部ヒマラヤのオールド・マナリのはずれに、マヌ寺院はひっそりと建っている。私は散歩にちょうどいいので、滞在中はときどきこの寺院を訪ねているが、よく考えてみればマヌ寺院は星の数ほどあるインドのヒンドゥー寺院のなかでもきわめて珍しい。祀られているのはマヌ・リシ。人類の始祖で、「マヌ法典」の編纂者といわれる。地名のマナリは「マヌのいる場所」という意味なので、マヌ寺院があるのは当然だった。

 このマヌの神話が聖書のノアのエピソードとよく似ている

 『アグニ・プラーナ』によれば、ヴァイヴァスヴァタ・マヌが川で修行をしているとき手の中に魚(マツヤ)が飛び込み、大きな魚に食べられてしまうから川に投げ込まないでほしいと懇願した。マヌは魚を壺にいれて飼った。魚は次第に大きくなり、池へ、湖へ、そして最後には海へ放した。それは巨大な魚となり、マヌに語った。「7日後に大洪水にみまわれるので、あらゆる種子と7人の賢者(リシ)を船にのせなさい」。はたして世界は洪水に襲われたが、マヌが乗った船は巨魚に救われた。

 オルソンによれば、洪水神話は世界で250ほどあるという。おそらくもっと多いだろう。彼女はノアとマヌだけでなく、洪水神話と関係のある始祖や英雄の名前が似ていることに注目し、比較を試みている。

 インド(マヌ、マヌサ) イスラエル(モーセ、ムサ) ギリシア(ミノス) エジプト(マネス) スウェーデン(マンニスカ) ドイツ(マンヌス)

 それぞれの洪水神話と英雄が細かいところまで一致するわけではないが、名前の類似性は、はるか遠い過去に源をたどることができることを示唆している。ノアとマヌに関していえば、両者とも法を定めている点が一致する。また、マヌにとってのアララト山はスメル山(須弥山)である。スメル山はヒマラヤか、カイラス山を指していたかもしれない。あるいは上述のオールド・マナリのことだったかもしれない。

 
マヌ法典 – 世界史の窓
 
 『マヌ法典』が編纂されたのは前2世紀~後2世紀の間とみられているようですが、400年もかけて編纂するなんて…

時間かかり過ぎなんじゃないの?

…という気がしないでも?

 ま、それについてはひとまず脇に措いて、「ノア」と「マヌ」の類似性から考えられるのは…

「ノア」のエピソードがインド神話に盛られた

…という可能性です。もっとも?「ノア」のエピソードにしても、その「原型」はシュメール(メソポタミア)神話の…

『ギルガメッシュ叙事詩』

…になるんですケドw。
 
ギルガメシュ叙事詩 – DTI
 
 なんでも、オリジナルのシュメール語版の編纂は紀元前3000年紀に遡る可能性が極めて高いとのコト。

 で、インド神話ですが、バラモン(ブラフマン)教の経典『ヴェーダ』が、紀元前1000~500年の間に編纂されたのであれば、経典の基礎となる神話に『ギルガメッシュ叙事詩』が盛られた可能性は十分にあるワケです。

 人類の祖先の名前の類似性からすると、どこかがオリジナルで、「M系」の名前が拡散したと考えるのは妥当であり、「洪水」というモチーフ(原型)はシュメール神話由来であったにせよ、「ギルガメッシュ」という名前が「M系」の名前に転訛するとはチョット考え難く、後世の文明が「ギルガメッシュ」を「M系」の名前に置き換えたと考えたほうが自然です。

 旧約聖書の「モーセ」に関しては、その出自…というか生まれたときの状況が、初代アッカド帝国の王「サルゴン」と酷似していることから、おそらくユダヤ教はバビロニア神話を盛っていると推察されます。
 
サルゴン (アッカド王) – Wikipedia
 
 時系列を整理すると、まずシュメールの「洪水」の物語(紀元前三千年頃)があり、つぎに「サルゴン王」=「モーセ」の逸話(紀元前二千年前半)があり、シュメール神話を受け継いだアッカド「マルドゥク」を最高神としたバビロニア神話が成立し、「マルドゥク」が人間を創造した神であることを鑑みれば、「M系」の名前は「マルドゥク」=アッカドにまで遡るのではないかと?

 ちなみにバビロニアの神殿には…
 

ノアの大洪水
レムナント出版 ― 創造論(科学的創造論) より

キススロス(クシストロス)王は、神々のひとりから次のように告げられた。

『舟をつくり、それに友人親族およびあらゆる種類の動物を乗せ、必要な食物を携えよ』

そこで彼は巨大な舟を建造した。

舟はやがてアルメニアの山(アララテ山はアルメニアにある)に乗り上げた

大洪水がおさまってきたので、彼は鳥たちを放った。三度目に鳥は帰って来なかった。彼は外に出て、祭壇を築き、犠牲をささげた」。

 
…という記録があると、紀元前3世紀はじめのバビロニアの著述家、ベロッソスが書き残しています。
 

ベロッソス – Wikipedia

『バビロニア誌』 原資料と内容

…第二書は創造からナボナッサロス(Nabonassaros 前747-734年)に至るバビロニア諸王の歴史を記述している。エウセビオスは、アポロドロスが「ベロッソスは、最初の王アロロス(Aloros)からクシストロス(Xisouthros)そして大洪水に至る年代を43万年としている」といっているのを伝えている。ベロッソスの描く系譜からして、彼がここ、特に(伝説的な)大洪水以前の王たち、それとセナケイリモス(Senakheirimos センナケリブ)からの前7世紀以降を編纂するときに『王名表』を手元においていたのは確実である。シュンケロスに残っているベロッソスによる大洪水についての記述は非常に『ギルガメシュ叙事詩』のある版に類似している。しかしこの叙事詩においては主人公はウトナピシュティムだが、クシストロスの名はどちらかというとシュメール版大洪水神話の主人公であるジウスドラのギリシア語表記のように思われる。…

 
 紀元前3千年頃にはエジプトでも第一王朝が成立していたので、「エジプト神話」を盛ったという可能性も考えられますが、シュメール文明にはさらにそれに先行するウバイド文明があり、紀元前5000~4000年の間に既に都市化され、それに伴い神殿が建てられていたそうですから、『ギルガメッシュ叙事詩』ですらウバイド文明発祥の地、ザグロス山脈地帯を襲った「洪水の記憶」が盛られているかも知れませんw。
 
ウバイド文化 – Wikipedia
 

ザグロス山脈 – Wikipedia

歴史のなかのザグロス山脈

 ザグロス山脈からは武器、馬具、装身具、容器、祭器などのルリスターン青銅器が出土している。山脈内には古代オリエントを統一したアケメネス朝の首都、ペルセポリスの遺跡がある。古代ペルシアでは山脈の中央を通過するペルセポリスからエクバタナ(ハマダーン)に至る道路が利用されていた。14世紀の旅行家イブン・バットゥータは『大旅行記』の中でホルムズからザグロス山脈を越えてシーラーズに向かったことを述べている。

 
 であれば、ザグロス山脈の北端のあるアララト山に「箱舟」が漂着するのも頷ける話で、中東地方を襲った洪水が浮いているだけの「ノアの箱舟」を一千km以上押し流して、トルコとアルメニアの国境近辺にまでたどり着くというのはどうなのか?
 


ウバイド文化圏

 
 以上のことから、インド神話にはバビロニア神話が盛られているというのがのワタシの見解であり、「ユダヤ教」が盛られているにしても、ユダヤ戦争などで捕虜(バビロン捕囚:紀元前607年)になった古代ユダヤ人が、ペルシャによって解放された後に一部がインドに移住して「ユダヤ教」を広めたとか?

 『ヴェーダ』や『マヌ法典』に『旧約聖書』に類似した物語が盛られた可能性は十分考えられますが、そもそも紀元前1500年頃インド北部に侵入したとされるアーリア人が、「牛」を神聖なものしているのはエジプトやメソポタミア宗教観と同じであり、「多神教」という点でも類似しています。

 これらを整理すると、『ヴェーダ』のなかで最も古い『リグ=ヴェーダ』(紀元前1200~1000年頃成立)も、バビロニア経由で入り込んできたメソポタミア神話が根底にあり、そうなるとアーリア人が北方からインドに入ったからといって、北方騎馬民族と決め付けるのは短絡的ではないか?

 「西」から陸路でインドに入るには、パキスタンを南北に貫く山脈の北側を迂回するしかなく、必然的にパンジャブ地方がインドの入り口になり、彼の地に入植していた、ヒッタイトに押し出される形で東方へ移住したアッシリア人か、もしくはヒッタイトの一部の勢力がインドに侵入したとも考えられます。
 


「アーリア人」の侵入ルート

 
ヒッタイト – Wikipedia
 
 インド神話にはメソポタミア神話との類似性が見受けられるワケですが、中東地域との交易や人の往来があったことは確かでしょうし、それは日本の古代史にも大きな係りを持つようになるワケです…たぶん。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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