エジプト近代史 – 「世界史の窓」より

 中東のメインプレイヤーの一角であるエジプトの近代史を、「世界史の窓」さんを参考にサクっと振り返ってみます。
 

イスラーム化の時代

 紀元前332年にアレキサンダー大王に征服され、エジプト王朝は第26代で終焉を迎え、その後はギリシャ~ローマの管轄下に置かれます。

 同時期にキリスト教が広まりコプト教会が設立されます。コプト教会はキリスト教会のなかでも古層の教会で、司教の服装を見てもバチカンとは随分異なる印象を受けます。

 ローマ帝国が東西に分かれ(395年)、エジプトは東ローマ帝国に属することになりますが、621年にササーン朝ペルシャの侵略を受け、さらに639年に新興勢力のイスラム教の軍隊に占領されて、預言者マホメットの血縁王朝であるウマイヤ朝に編入されてイスラム化がはじまります。

 一方で、マホメットの血縁(クライシュ族)が特権を振るうのを快く思わない勢力により、血縁支配(正統カリフ時代)は4代で終りを告げ、代わって血縁ではなく教義を重んじる「スンナ派」へと権力が移り(661年)、「シーア派」と「スンナ派」の対立がはじまることになります。

 

傭兵(マムルーク)の時代

 スンナ派のウマイヤ朝の跡を継いだアッバース朝の力が衰えると、969年にチュニジアに興ったシーア派のファーティマ朝に組み入れられ、カイロはシーア派の中心都市となりますが、1169年、傭兵出身のクルド人宰相サラディンに乗っ取られてアイユーブ朝になると、シーア派に替わりスンナ派が台頭するようになり、傭兵の登用も盛んになります。

 アイユーブ朝の傭兵は十字軍との戦いで活躍し、傭兵がクーデターを起こして樹立したマムルーク朝は、1517年にオスマン帝国に敗れるまで続き、この間にエジプトのシーア派は一掃されることになります。

 

オスマン帝国の時代

 マムルーク朝からオスマン帝国に寝返った傭兵(マムルーク)も数多く、その中から地方の総督に任命される者も現れ、そうした傭兵の一人であったアリー・ベイは、エジプト全土の傭兵を束ねるまでになると露土戦争でロシアに加勢し、オスマン帝国に反旗を翻します。

 オスマン帝国はエジプトの再支配を試みますが、露土戦争の影響で力が及ばず、エジプトはアリー・ベイの死後も傭兵による自治状態が続き、それに目をつけたナポレオンは…「傭兵による圧制を打破する」…との名目でエジプトに遠征し、またたく間にカイロを占領します。

 しかし、エジプトを再支配したいオスマン帝国は、イギリスと同盟してフランス軍をエジプトから追い出し、オスマン帝国に雇われた傭兵が再びエジプト総督に就任することになります。

 カイロ市民の支持を得た、マケドニア出身とされる傭兵のムハンマド・アリーは、オスマン帝国から権限の移譲を受け、1805年にムハンマド・アリー朝を樹立します。

 ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化を進める上で傭兵の存在がジャマになる考え、城の中に傭兵を集めて抹殺する策略をたて、主だったマムルークを虐殺するという、謂わば…「裏切り」…によって自らの地位の安泰を図ります。

 このときにマムルークが集められた理由が…「ワッハーブ派を掃討するため」…というもので、この策略から逃げ延びたマムルークが「ワッハーブ派」に合流したとしても、不思議ではありません。

 

近代エジプト

 ムハンマド・アリー朝は、近代化のためにイギリスとフランスに膨大な借金をし、そのためイギリスとフランスの政治介入を招き、ほぼ傀儡政権の状態であった時に、独善的な支配に反発するエジプト人によってウラービー革命(1881年)が起こり政権を奪取しますが、イギリスが軍事介入(1882年)してエジプトとアリー朝はイギリスの保護の下に置かれます。

 第一次世界大戦後の1919年に大規模な独立運動が起こり、1922年にはイギリスからの独立(エジプト王国)が認められますが、アリー朝がイギリスの傀儡政権であることには変わりなく、こうした状況が第二次世界大戦後まで続きます。

 1948年に勃発した第一次中東戦争でイスラエルに惨敗したことで、アリー朝は民衆の支持を決定的に失い、ナセルら青年将校がクーデターを起こして、ムハンマド・アリー朝は1953年に幕を降ろします。

 

ムハンマド・アリー朝 – Wikipedia

王族
ムハンマド・アリー家はもともとアルバニア系ともトルコ系とも言われ、アラブ人が大多数のエジプトにおいては外来者の家系であった。宮廷で話される言葉もアラビア語よりトルコ語が主であったという。

ムハンマド・アリーの時代からオスマン帝国から実質上独立したと言ってもその権威の源泉は帝国の首都であるイスタンブルにあった。帝国の滅亡までイスタンブル近郊にはヘディーヴの豪華な別邸が置かれ、ヘディーヴの一族の多くもイスタンブルに居住していた。中には、イスマーイール・パシャの弟ムスタファ・ファズル・パシャのように帝国政府の大臣を歴任した政治家も存在する。

王位の継承順位は、総督はムハンマド・アリーの男系子孫中の最年長者が即位するよう定められていたが、第5代のイスマーイール・パシャのときイスタンブルのオスマン帝国政府に運動して親から子に相続する制度に改められた。

最後の国王フアード2世は1952年生まれで、父のファールーク1世が同年のクーデターでイタリアに亡命した結果、生後6ヶ月で即位した。しかし翌年1歳6ヶ月で廃位され、成長したのは亡命先のフランスとモナコにおいてである。

 
 エジプトの歴史をザッと振り返っただけでも、マムルーク(傭兵)がいかに深く係っていたかが分かりますし、中東地域全体の状況が窺い知れます。こうした歴史的傭兵ネットワークはアフガニスタンまで及んでいて、なぜ?サウジアラビアから遠く離れたアフガニスタンの山中に「アル・カイーダ」の拠点があるのかも、こうした歴史的背景から理解できます。

 ビン・ラディン(イブン・ラディン)がパキスタンに身を潜めていたのも、おそらく歴史的ネットワークによるものであり、そのスポンサーになっているのはサウド王家であり、イギリスだというコトなんでしょ?

 要するに$$団にしてもその実体は傭兵の集団であり…

現代に蘇ったマムルークの亡霊

…というコトなんでしょうなw!
 
 
 
 

歴史ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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