閻魔大王のルーツ

 今日、興味深いニュースを目にしました。

明王像があの五郎丸ポーズ? 企画展でお目見え 和歌山
朝日デジタル 東孝司 2016年1月31日16時28分


銅造大威徳明王像

 昨秋のラグビーワールドカップ(W杯)イングランド大会で活躍した五郎丸歩選手が、キック前にする独特の手を合わせるポーズ。これにそっくりな形をした「大威徳明王(だいいとくみょうおう)像」の展示が30日、和歌山県新宮市阿須賀1丁目の市立歴史民俗資料館(阿須賀神社境内)で始まった。

 展示品は、銅鏡の表面に仏像を彫り込んだり、銅製の仏像を張り付けたりした「御正体(みしょうたい)」というもの。1959年の伊勢湾台風で倒れた神社の境内の巨木の根元やその周辺から、平安時代末~室町時代中頃の約200点がみつかり、その多くが大威徳明王の像だった。今回、保存状態のいい17点が並んでいる。

 大威徳明王は六面六臂(ぴ)六足(顔、手、足が六つ)で水牛にまたがっているのが特徴。17点のうち、腕が欠損した2点を除くとほとんどが両手を胸の前で組んでいる。とりわけ鎌倉時代作の像高29・3センチのものは指をくっつける形が「五郎丸ポーズ」にそっくりだ。

 「五郎丸選手がくっつけるのは人さし指、銅像は中指と微妙に違っているんですが」と市教委の担当者。京都の東寺醍醐寺の大威徳明王像も同じような五郎丸ポーズをしている。

 近隣に仏像の鋳造遺構はないため、担当者は「熊野詣をした京都の人が奉納したのでは」とみている。

 企画展「新宮のゴロー丸!?~阿須賀神社と大威徳明王」は3月31日まで(月曜休館)。大人210円、小中学生100円。市教委は「地元の文化財をぜひ知ってほしい」との考えから市広報2月号に入館無料券をつけている。(東孝司)

 なんでも境内の巨木の根元に埋められていたそうで、熊野詣に訪れた人が奉納したのでは?とのことですが、奉納したのであれば記録が残っているのでは?

 平安時代末~室町時代中頃のものということですから、記録が紛失してしまった可能性も考えられますが、ワタシには「隠した」ようにも思えます。

 和歌山県神社庁のHPによれば、阿須賀(アスカ)神社の御祭神は事解男命(主祭神)、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神、黄泉道守命(配祀神)、建角身命であり、大威徳明王は全く無縁の存在です。

和歌山県神社庁 – 阿須賀神社

由来
当社は、古事記、日本書紀に記されている熊野村、熊野神邑であり、遠く第五代孝昭天皇53(皇紀238)年3月の創祀と申される。

御承知の通り、伊邪那岐・伊邪那美2神の熊野に参られ御産みになった神々をお祀りし、從って熊野は黄泉の国、常世の国と読まれ、熊野発祥地とも云われている。

阿須賀とは、阿は接頭語、祭祀生活を営む好適条件を備えた霊場とか、或は浅州処と名づけられる地名で、飛鳥山を御神体とする神の鎮座地としての信仰が古くからあったようである。

社後の森蓬莱山(飛鳥山)は、第七代孝霊天皇6(皇紀376)年、秦人徐福、始皇帝の命をうけ不老不死の仙薬を求め献じ奉らんと、童男童女3千を卒い、五穀百工を携えて東海に船を浮べ、常世の郷、熊野邑、即ち飛鳥に参って帰らず子孫繁昌したと伝えられる徐福の宮がある。

(社殿造営)
徳川幕府歴朝の聖慮を奉体し、昔時の尊厳を保持し造営維持の方法を設け、嘉永7(1854)年に将軍家定紀伊国主をして社殿の再建をなし、其の結構偉麗でしたが戦災の為悉々烏有に帰したが昭和51年に銅板葺社殿が復興した。

(蓬莱山[飛鳥山])
飛鳥の森は古来禁足地となっていた聖域であり権現御創祀の神蹟、即ち初は孤立した斎島(神の森)原始期の磐座であって其の麓には上、下、両古代祭祀遺跡と、後世両部信仰に関係深い熊野諸尊御直体埋納所(経塚)を営み、熊野信仰の一霊所であったことがわかる。

今に至るを蓬莱山に対する信仰には変りない。

(境内三光社)
熊野三毛津神として尊稱され又夫須美の荒御魂、熊野党の母神ともいわれるなど其の創社は普富として更に古代にさかのぼると思われる。

(徐福宮)
第七代皇霊天皇の頃、秦の徐福が神薬を求めてこの熊野に来り、この地に奉祀されたと言われる。

(神宝)
古神宝等は国立博物館蔵として保存されている。

此の外、近年発掘発見された多くの弥生須恵、土師器の外、祭祀遺物を始め和鏡、銅板彫鏡、御正体諸尊像は、それぞれ御由緒深いご社暦を証するものである。

 大威徳明王は密教特有の尊格だそうで、となると「空海」が持ち込んだのか?という話になり、空海が唐から帰国した時期と発見された大威徳明王の製作年代も一致します。

 ならば阿須賀神社の由来からしても、そもそも大威徳明王も一緒に祭られていたとのではないか?と考えられ…

いつ埋められたのか?

…というコトに焦点が移るワケです。

 「1959年の伊勢湾台風で倒れた神社の境内の巨木の根元やその周辺」から現れたということは、比較的浅い場所に埋められていたことを表し、さらに想像を飛躍させるなら…

急いで埋めた

…という事も考えられます。で、そしてそうした状況とは、「宗教弾圧」などが行なわれたことを示唆するもので、直近の宗教弾圧といえば明治時代の「廃仏毀釈」があります。

廃仏毀釈 – Wikipedia


岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」。苗木藩の廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る。(出典:Wikipedia)

 つまり阿須賀神社は本来神仏習合の神社であったのが、明治期に大威徳明王を捨ててしまったということで、その際、大威徳明王を信仰していた村人が「打ち壊す」のが忍びなく、境内の巨木の根元に埋めたのではないか?

 で、明治期のことであれば、ひょっとしたら親から語り継がれた生き証人も存命してるかも?と、思った次第です。

 そうした郷土史を掘り起こすことで、地域の連帯感?というか、地元の価値(歴史)を再認識することになれば、地方の活性化にも繋がるんじゃないの?という話。

 ただし、郷土史というものは過剰に美化される傾向にあるので、学術的に歴史を検証する場合には近接する地域の郷土史などと比較検討して、総合的な判断をすることが重要になります。

 ま、それはアレとして、阿須賀神社のある新宮市には「徐福上陸伝説」も残っていて、渡来人の拠点だった可能性が高い、一癖ありそうな場所ですなw。

 ついでに、大威徳明王の梵名のヤマーンタカとは、『死神ヤマをも殺す者』という意味だそうで、『死神ヤマ』とは閻魔大王のこと。即ち…

大威徳明王は閻魔大王より強い

…ということですw。

 で、閻魔大王の原型はゾロアスター教の中に見られるということで、ゾロアスター教といえば「近親婚」が挙げられますが、その痕跡として?『リグ・ヴェーダ』では、ヤマとその妹ヤミーが兄弟姉妹婚により最初の人類が生まれ、人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王(閻魔大王)となったと。

 また、熊野が「黄泉の国」とされるのも、閻魔大王の伝承に因むのかも知れませんw。

閻魔 – Wikipedia

 イランからインドに伝わり、そして中国を経て日本に伝わる閻魔大王ですが、その閻魔大王より強い大威徳明王とはイッタイ何者なのか?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

広告