「邪馬台国」は存在しなかった 5

 「邪馬台国は存在しなかった」という仮説をもう一度整理すると…
 

  1. 卑弥呼および邪馬台国は中国側の文献にのみ記述され、なおかつ文献によってその場所が違う。
     
  2. 倭国大乱を鎮めるため卑弥呼が共王に立つが、同時期に中国大陸でも戦乱や自然災害が続き、多くの農民が土地を捨てて亡命していることが『後漢書』に記述されている。
     
  3. 戦乱や飢饉を逃れて北九州に流れ着いた亡命農民は相当数に上ると考えられる。
     
  4. そうした難民は各地にコミュニティーを形成し、中国側はそのコミュニティーを「邪馬台国」と呼んだのではないか?

 
…というのが基本的な「筋」

 そして「ミトコンドリアDNA」倭の国の力関係、および文献の再検証した結果から言えるのは…

縄文人は中華ヘゲモニーに呑みこまれた

…らしいというコト。

 現代人はそれを侵略と考えるかも知れませんが、アメリカインディアンが欧州移民に虐殺?されたのに比べればずっと緩やかであり、なおかつ「国家意識」を持つ者と持たざる者とを並べて論じても意味がありませんw。

 現代と違い「人権」などという観念は無く、せめてもの救いは農民の亡命者が主体であったが故に大規模な侵略戦争は起きず、それどころか地域によっては縄文人(先住日本人)と共同生活を営んだ形跡も見られ、やがてお互いに通婚するようになり…

長い年月をかけて日本人が形作られた

…とするのが実情に合っているように思えます。
 

【写真特集】吉野ケ里遺跡「古代の森」完成 弥生時代のカプセル再現
毎日新聞 2013年03月21日


レプリカで再現された甕棺の出土現場=佐賀県神埼市の吉野ケ里歴史公園で2013年3月20日午後0時7分、和田大典撮影

 
 甕棺のルーツは長江流域であることから、吉野ケ里遺跡は長江流域からの難民によって築かれたと解釈するのが妥当であり、また、吉野ケ里遺跡からは住民が難民もしくは亡命者であることを伺わせる「銅鏡」も出土しています。
 


「久」「不」「相」「見」「長」「毋」「相」「忘」

 
久不相見 長毋相忘
 
 「もう会うことは無いけれど忘れないでね」…という銘文で、まるで卒業文集の一節のようであり、故郷を離れる(捨てる)ときに友人、知人から贈られたものかも知れませんw。

 甕棺と同じく環濠集落のルーツも長江流域にあり、環濠集落=難民コミュニティーを中国側が「邪馬台国」と呼んでいたのだとすれば、集落が発掘された場所は文献に見られる「邪馬台国」の位置、もしくは各地の「天孫降臨神話」にほぼ一致しますw。
 


「日本人の源流を探して」 – より

 

都於邪靡堆,則『魏志』所謂邪馬台者也。
都は邪靡堆,即ち、『魏志』でいう所の邪馬台の者なり。

阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行祷祭。
阿蘇山があり,その石は突然噴火して天まで届く,俗衆は異変と考え,祈祷と祭事を行なう。

『隋書』 – 東夷

 

倭國者,古倭奴國也。
倭の国の者,古の倭の奴国なり。

四面小島,五十余國,皆附屬焉。
四面の小島五十余国は、皆が倭国に付属しているようだ。

『旧唐書』 – 倭国

 

日本國者,倭國之別種也。
日本国の者は、倭の国とは別種なり。

又云,其國界,東西南北各數千里。
又云う,その国の境界は東西南北各数千里。

西界南界咸至大海,東界北界有大山爲限,山外即毛人之國。
西と南の境界はどちらも大海に至り、東と北の境界は大きな山で限られ、山の外は毛人の国。

『旧唐書』 – 日本

 

日本,古倭奴也。
日本,古えの倭の奴国なり。

左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。
左右の小島五十余,皆、自らの国名を名乗り,臣下がこれに付随する。

『新唐書』 – 日本

 
 先の「銅鏡」にしてもそうですが、文献には中国の皇帝が倭の王を哀れむ下りが散見されます。
 

汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝
汝の所在は遥かに遠くに在り,なのに使者を遣わせ貢献する,是、汝の忠孝,我(明帝)は甚だ汝を哀れむ。

悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。
悉く汝の国中の人に示せば,使者も国家(魏)が汝を哀れんでいることを知る,故に、丁重に汝が好む物を賜るなり。

「魏志倭人伝」 – 明帝

 

貞觀五年,遣使獻方物。
貞觀五年(631年),遣いの使者が方物を献上。

太宗矜其道遠,敕所司無令歳貢。
太宗はその遠い道のりを哀れみ,所司に敕じて毎歳の朝貢を免除。

「旧唐書」 – 太宗

 
 中国の皇帝が倭の朝貢を哀れむなんて感覚的にシックリこなかったのですが、「倭の国」の基礎が「中国難民」によって築かれたことを歴代皇帝は知り、かつ、同胞の末裔であるが故に哀れんだのではないか?と。

 因みに太宗は「白村江の戦い(663年)」以前の皇帝に、倭の国が戦いに敗れ「日本」へと様変わりして以降、日本の王を哀れんだ記述は文献に見られません。

 余談ですが奈良、平安時代の行政区の名称は、九州では中国に近い方が「前」とされ、本州では「畿」=「王都」に近い方を「前」としています。
 


【野々市HP】 奈良・平安時代の国道

 
 そもそも?「九州」は中国を意味する名称であり、それだけ関係が深かったというコト。
 

 
 今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!