閻魔大王の補佐官

 「邪馬台国」の検証はひとやすみして、天皇陛下が東京都福生市の田村酒造をご訪問されたのに因んで、「福生」はなぜ「福生」なのか?というコトについて考察します。

 現在の日本各地の「地名」は、和銅六年(713年)の「好字二字化令」によって改名され、その土地のルーツを示す旧来の「地名」の多くは適当な「漢字」に置き換えられてしまいましたが、「地名」に歴史の痕跡を探り、歴史の再構築を試みる郷土史研究会は日本中にあるようです。
 
久留米地名研究会
 

令制国 – Wikipedia

令制国の成立

日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

『日本書紀』には、大化元年(645年)の大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、飛鳥京跡から出土した木簡削片に「伊勢国」「近淡□(海)」などと書かれていることが判っているので、『日本書紀』の記事に信を置けば大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたものと推測される。

しかし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』にある大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、多くの令制国が確実に成立したと言えるのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からである。

故に、令制国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となる。この間の段階的な制度変化の結果である可能性も高い。
 
 
律令制下

律令制確立直後の、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、元明天皇は、令制国毎に『風土記』という地誌の編纂を命じた。現在、出雲国、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国の物が、一部残存している。同年5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字(よいじ)を付けるように命じた。上毛野国・下毛野国・木国・粟国の国名が漢字2文字に統一された。

天平10年(738年)諸国の国郡図を進上させる。

天平11年(739年)末頃から天平12年(740年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。

天平時代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、天平13年(741年)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。

平安時代の延喜式には、各令制国の郡の個数が記載された。また、以下のように国力による分類(大国、上国、中国、下国)と都からの距離による分類(畿内、近国、中国、遠国)が行われた。

 

両陛下、武蔵野陵ご参拝
産経ニュース 2016.4.12 20:59


香淳皇后の武蔵野東陵を参拝された天皇陛下=12日午前、東京都八王子市

 天皇、皇后両陛下は12日、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵、香淳皇后の武蔵野東陵を参拝された。春の彼岸に合わせた恒例の参拝だが、先の大戦における戦没者慰霊を果たした1月のフィリピン訪問についても報告されたという。

 続いて、江戸後期から続く福生市の酒造会社「田村酒造場」と、飲料水や酒造用の水車の動力として使われてきた裏手の玉川上水を視察された。当主の田村半十郎さんから敷地内に水を取り込む方法などについて説明を受けると、両陛下は身を乗り出しながら取水口を確認されていた。

 さらに、酒造蔵に入り、酒米の特徴や磨き方などについても話を聞かれた。和食ブームで海外でも日本酒の人気が高まり、輸出量が増えていることが話題に上り、天皇陛下は「どこの国が一番ですか」などと関心を示されていた。

 
 前置きが長くなりましたが、「閻魔大王の補佐官」とは小野篁のことで、「福生」という地名に大きく係っているのではないかと?
 

小野篁 – Wikipedia

逸話と伝説

篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
 
 
系譜

武蔵七党の猪俣党や横山党などの武士は小野篁の子孫を称して、小野にちなんで「野太郎」「小野太」などと称している。また、それからの転化で「弥太郎」や「小弥太」と称した者もいる。なお、猪俣党や横山党の出自については、小野篁の後裔とするもののほか、武蔵国造の末裔とする説もある(詳細は猪俣党・横山党の各項を参照)。

 
 福生市周辺に住んでいる人はスグにピン!ときますが、米軍横田基地の北側にある瑞穂町には「六道山」という山があって、つまり福生市および六道山の名前は一対(セット)になっていて.、小野篁の逸話に因んでいるのではないか?という話。
 

横山党 – Wikipedia

出自

多くの文献から、小野篁の後裔とされている。但し、これには異論を唱える研究者(安田元久は諸系図の精査や世代間の年数の計算、当時の国司の任命状況から見て後世の作為で、実際は在地の開発領主の末裔であろうと推測し、太田亮の『姓氏家系辞典』での所見である、古代日本における地方官であり軍事権・裁判権などを持ち祭祀を司ったその地方の支配者武蔵国造の末裔ではないかという見解を消極的に支持している)もいる。

武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)を本拠として横山姓を称したとされる。当時「横山」とは多摩丘陵を指し、『万葉集』に「多摩の横山」と詠われている。ここは武蔵の国府周辺であって、由比牧、小野牧との関連があった。前九年の役を境にして、武蔵の北部熊谷市より本庄市にいたる、条里地域に面する台地の縁辺に移り、一族が繁栄する。荒川の扇状地上であるから条里の崩壊も少なく、生産的にみても最良の地である。

 
 横山党の出自の真偽はアレとしても、ただ「小野氏」を名乗るだけでなく、地名にまでその痕跡を留めようとする努力?には、やはりそれなりに「縁の深い者」がいたことが伺えます。

 余談ですが、八切止夫氏も武蔵七党に少しだけ触れていて…
 

さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で戦国時代の村山七党の流れをくむ武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。
 
『古代史入門 1』

 
…とのことですが、憚りながら訂正させてもらうと…「村山七党」X⇒「武蔵七党」○、「武蔵党」X⇒「村山党」○…ですw。

村山党 – Wikipedia

 ところで「大化の改新」は全くの後世の潤色であったのか?というと、そうとも言えないように思うワケです。つまり、日本全国いっせいに「律令制」が施行されたワケではなかったというコト。

 「邪馬台国」=「中国難民」という仮説に基づき、中国難民の入植が進んだ地域から順次律令制の下に置かれ、大宝元年(701年)までにそれがほぼ全国に及んだと考えれば、『日本書紀』の記述もあながち潤色とは言えないという話です。

 今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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