女王の都 - 日下部氏編 3

 ズイブン間が空きましたが今までの流れを少し整理すると、埼玉県行田市で出土した「稲荷山古墳出土鉄剣」の製作者の家系は、製作者である「乎獲居」以前の七代が時の大王に仕えた軍人の家系だということと、大分県日田市(不彌国)に在る日下部氏のものと比定される法恩寺山古墳も、七基=七代で終わっているという一致が見られること。
 


法恩寺山古墳群

 
 次に鉄剣に刻まれた、「獲加多支鹵(ワカタキル)大王は斯鬼(シキ)宮に寺を持つ」という一節から、仏教が既に伝来していることが読み取れることと、「シキ」という名称は欽明天皇の別名である「斯帰斯麻(シキシマ)天皇」にも見られ、かつ、仏教は欽明天皇の時代に百済から伝わったというのであれば、欽明天皇より前の雄略天皇を「獲加多支鹵大王」とする説は矛盾すること。
 
稲荷山古墳出土鉄剣 – Wikipedia
 

銘文の要約

辛亥年七月中記。「乎獲居(ヲ・ワケ)」臣の先祖は➀「意富比垝(オホ・ヒコ)」。「意富比垝」の子が➁「多加利足尼(タカリ・スクネ)」、その子が➂「弖已加利獲居(テイカリ・ワケ)」、その子が➃「多加披次獲居(タカハシ・ワケ)」、その子が➄「多沙鬼獲居(タサマ・ワケ)」、その子が➅「半弖比(ハテヒ)」、その子が➆「加差披余(カサハヨ)」、その子が⑧「乎獲居(ヲ・ワケ)」臣である。七代に亘り軍人の首長を勤め、今日に至る。

「獲加多支鹵(ワカタキル)」大王の寺が「斯鬼(シキ)」宮に在った時には軍事を司った。その業績を記録するためにこの刀を作った。

 
 また、日下部氏が雄略天皇の皇后「草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ)」の世話係りとして置かれた品部にはじまるのであれば、初代の「意富比垝」から雄略天皇に仕えていたことになる一方で、歴代が軍人の首長を務めたという銘文の内容とは矛盾すること。
 

 


「隼人と大和政権」 井上辰雄(著)
学生社 (歴史書懇話会)

日奉部(ひまつりべ)・財日奉(たからのひまつり)

…先にあげた子湯県の周辺部にあるとされた新田原(にゅうたばる)古墳群は「和名抄」に言う、【那珂郡夜明郷】に比定されている。【夜明】というのも、日向や日奉部に関係があるようであるが、じつは同名の郷が豊後国の日田郡にある。この豊後国の日田郡の郡司は、日下部一族である(拙著『正税帳の研究』)。『豊後国正税帳』に、【大領・外正七位上勲九等日下部連吉島(『大日本古文書』2-40)】とあるのがそれである。…
 
…ところで、この「日下部」こそ日向の髪長媛の娘、若日下部王(雄略天皇妃)の部民なのである。…

 
【コトバンク】 新田原古墳群
 
 以上の諸々を勘案して「鉄剣」の銘文を柱に時系列を整理すると、法恩寺山古墳群の年代は6世紀中頃と見積もられいますが、七基の古墳をほぼ同時期に造ったとは考え難く、七代に亘り造ったと考えるのが妥当であり、6世紀中頃を平均値?とするならば、全基の年代的範囲はおよそ±140~150年で、5世紀の始めから7世紀の終わりにかけてと考えられます(一代40年とした場合)。
 


不彌国の位置

 
 鉄剣の製作者=日下部氏だとすると、「乎獲居」の鉄剣製作年=辛亥年は、法恩寺山古墳群の最後の古墳が造られた7世紀後半以降と考えられ、651年か711年の「辛亥年」が相当するワケですが、663年の「白村江の戦い」で、倭と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に敗れたことで、倭の国の軍参謀でもある日下部氏は不彌国から東国に亡命したとすれば、711年の「辛亥年」が銘文の年代なのではないか?という話になるワケです。

 つまり、「加差披余」の代までは不彌国に居を構えており、その後東国(関東)に移り住んだ日下部氏は「乎獲居」以降どうなったのか?となると、銘文に刻まれた「乎獲居臣」からは、別な大王の臣下になったことが読み取れ、その大王こそが「幻の関東王国」の大王ではないか?となるワケです。
 

 
 結論めいたコトを言うと、日田市(不彌国)の法恩寺山古墳群が七基までなのは、「白村の戦い」に破れた日下部氏が東国に亡命したからで、日下部氏は関東の豪族の大王に軍事面で仕えたらしいコトが、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文から読み取れ、したがって…

稲荷山古墳の鉄剣の製作者は日下部氏である

…というのが、現在のワタシの持論ですw。

 今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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