阿蘇神社参拝

増田候補=東京電力のヒモつき

小池候補=日本会議のヒモつき

これ以上、明快な判断材料があろうか?!
 


 
 先の熊本地震で大きな被害を受けた阿蘇神社の分社が東京の羽村市に在ることを知り、遅まきながら参拝してきました。
 

羽村の阿蘇神社から熊本へ祈り 総本社被災で地震後増える参拝客
東京新聞 2016年5月31日
 

 熊本地震の発生以降、羽村市羽加美四にある阿蘇神社の参拝客が、週末を中心に増えている。

 千四百年前の創建と伝えられ、地域の中で長い歴史を刻んできた神社で、参拝に訪れるのも地元の人たちが中心だったが、宮司の宮川武文さん(82)によると、熊本地震の後は週末になると遠方からの参拝客が増えてきた。最近も神奈川、茨城から来たという人や、「今東京駅に着いた」という人から神社への交通手段を問い合わせる電話があったという。

 熊本県阿蘇市の阿蘇神社は、地震で国指定重要文化財の「楼門」が倒壊するなどの大きな被害を受けた。この阿蘇神社を総本社に全国には約五百の分社があるが、都内にあるのは羽村市だけで、関東在住の熊本県出身者らが訪れているようだという。

 阿蘇市の阿蘇神社は楼門などの改修に多額の費用がかかるとされる。参拝に来た人に再建のためと義援金を託されることも多く、まとまった額になるたびに送っているという。宮川さんは「熊本までは行けないという人に親しみを持っていただいているようです。ありがたいことです」と話している。

 JR青梅線の羽村駅、小作駅からタクシーで約五分。 (水谷孝司)

 


羽村市 ‐ 阿蘇神社

 
 行ってみると分かりますが、旧奥多摩街道から細い道を入った多摩川縁にあり、地元の人以外には訪れる参拝者が少ないのも納得。

 また、創建は601年と伝えられ、延喜式(927年)に載っている多磨郡の八座(式内社)よりも歴史が古いにも係らず、なぜ?神名帳に載らなかったのか理由を知りたいものですw。
 
延喜式神名帳 – Wikipedia
 
 で、ワタシ父方の家紋は阿蘇神社と同じ「違い鷹の羽」であり、また、ご先祖が活躍した日奉西党は多磨西部を勢力圏とし、その祖である日奉宗頼は高皇産霊尊の子孫といわれていますが、正確には、都を追われた藤原宗頼が在地の日奉氏の女性を娶り、日奉宗頼と名乗るようになったようです。
 
日奉氏と武蔵四牧(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧)の成立
清水中世史研究所 2009年11月 1日 (日)
 

 
 日奉氏は日奉(祀)部に起源を発し、日奉部は第三十代敏達天皇によって置かれた、太陽神を祭祀する品部です。そして敏達天皇は、日奉部を特に辺境の地を選んで置いたとか?
 
No.432◇古代ヤマトの遠景(80)-【敏達天皇】-pdf
木下清隆 2013/10/31
 
 そうした辺境の一つが東京の日野市周辺であり、その子孫と結ばれた藤原宗頼が日奉姓を名乗り、日奉西党の祖となった…と、繋がるワケです。

 次に日奉部と阿蘇神社の繋がりですが、日奉=太陽信仰という観点からすれば農耕民族の信仰であると推測され、それ故か?阿蘇神社には「御田植神幸式」という祭事があり、それは羽村市の阿蘇神社も同様です。
 

倒壊阿蘇神社 再建祈る 御田植神幸式、200人練り歩く
読売新聞 2016年07月29日
 

 熊本地震で甚大な被害を受けた阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)で28日、国の重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」の一つ、「御田植神幸式(おたうえしんこうしき)」が行われた。約200人の神幸行列が神社周辺を練り歩き、五穀豊穣ほうじょうとともに、神社再建と地域の復興を祈った。

 御田植神幸式は神社最大の祭事で、地元では「おんだ祭り」と呼ばれる。倒壊した拝殿の代わりに設けた仮拝殿で神事が執り行われた後、4基のみこしと、神々の食事を運ぶ「宇奈利(うなり)」と呼ばれる白装束の女性たちが約2キロの道のりを歩いた。

 阿蘇神社は4月16日の「本震」で、2階造りの楼門が倒壊するなど、国指定重要文化財6棟が被災。神社によると、復元には約10年、約20億円を要するという。池浦秀隆・権禰宜(ごんねぎ)(44)は「祭事が住民の精神的な支えとなり、地域の復興の一助になってほしい」と話していた。

2016年07月29日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

 
 こうした農耕に関する祭事に「太陽信仰」の日奉部が関与していても、別に不思議ではありません。

 時代順でいうと敏達天皇の代に各地に日奉部が置かれ、その後、推古天皇の代に羽村市に阿蘇神社が創建されたことになりますが、阿蘇の地に先住していた豪族の草部氏の娘(阿蘇都媛)を、神武天皇の孫である健磐龍命が娶り阿蘇神社に主神として祀られていることや、草部氏は日下部氏とも書かれることを勘案すると、日奉部と日下部氏は何らかの関係があるのではないか?…と、思えてくるワケです。

 「日下部」とは、第二十一代雄略天皇の后=草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ)の部民だということで、敏達天皇に先んじて「皇后のお世話係り」=「私(きさい)部」を置いたことになりますが、「日下部」=「私部」だとすると、武蔵七党のひとつである「私市党」にも繋がります。
 
姓氏類別大観 【私市氏】
 
 また、多摩川を越え、羽村市の南側のあきる野市に入ると「私市」という苗字の家がチラホラ見られることから、「日下部」=「私部」が当該エリアに置かれていたことはほぼ間違いないと思われ、羽村市に阿蘇神社が創建されたのは、先に草部氏(日下部氏)が入植していたという必然性によるものと考えられるワケです。

 どうにもまとめるのが下手なので要点を述べると、まず、阿蘇神社と係りの深い「日下部」は「日奉部」なのか?(とはいっても、日奉部が置かれたのは敏達天皇の代になってからですが)という疑問。そして、皇后の部民=「私部」とは如何なる部民なのか?という疑問。最後に、「日下部」、「日奉部」、「私部」の相互関係はどうなっているのか?という疑問。

 状況的には、「日奉部」=「日下部」のように思えるワケですが、正直、よく分かりませwん

 ただ、「日奉部」=「日下部」であり、阿蘇神社は皇室と縁の深い神社であり、そうした歴史的背景故に、大正天皇、昭和天皇の陵は京都ではなく多摩に造られた…と考えると、イロイロ合点するコトがあるという話w。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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