真田家は鹿族 2

 真田幸村の父、真田昌幸は「安房守」に叙任されていますが、信濃(山国)の武将がナゼ?房総半島の安房と結びつくのか疑問でした。
 
真田昌幸 – Wikipedia
 
 で、安房といえば、阿波忌部氏が東国に移住した際の上陸地であり、一族のシンボルとして「鹿の角」を携えてきました。
 
忌部氏の出自
2014年7月4日
 


下立松原神社所蔵 – 由布津主命の遺品

 

安房国 – Wikipedia

「安房」の名称と由来

『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという。また、『古語拾遺』の説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門に因むとする説もある。

 
 つ・ま・り…

真田家は安房忌部氏の支流

…ではないか?という話で、それ故に「安房守」に叙され、また甲冑の意匠から、主君の武田信玄も同じく「鹿族」=忌部氏であったことが伺えます。
 


大甲冑展 ~ 武田信玄

 


真田幸村公所用写

 
 ところで大河ドラマ「真田丸」の最終回で、対峙する徳川勢のなかに井伊の「赤備え」を見た幸村が…

一度会って話し合いたいものだ

…とつぶやく場面がありました。

 「真田丸」から「女城主直虎」へ替わるのを受けた演出ですが、井伊の兵はそもそも武田の家臣団
 

井伊直政 – Wipipedia

安土桃山時代

…天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する(結婚は天正12年説あり)。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。…

 

飯富虎昌 – Wikipedia

人物

…彼の率いる部隊は全員が赤い軍装で揃えられ、武田の赤備えとして、精強武田軍団の代名詞ともなった。のちに弟の山県昌景をはじめ、井伊直政や真田信繁(幸村)等が赤備えを受け継いでいる。…

 
 井伊家といえば近江(おうみ)の彦根城が有名ですが、その出自は遠江(とおとうみ)。すなわち…

「近い江」と「遠い江」

…のちがいであり、地名から察するに二つの地域には関連性(因縁)があるように思えます。

 井伊家初代は井戸の脇に捨てられていた捨て子だったそうで、親が誰かは不明です。つまり本当の出自は不明であり、そこで想像を働かせるなら、井伊家の初代は近江の国をルーツとするのではないか?それ故、井伊家は後年近江に所領を得たのではないか?というストーリーが思い浮かぶワケです。

 話が真田家から逸れましたが、行基図を参照すると奈良時代から安房国と甲斐国は一本道で繋がれ、安房の忌部氏が甲斐まで移動した可能性は十分考えられます。
 


行基図 – Wikipedia

 
 そして甲斐が忌部氏の末裔の地であるなら、そのルーツである安房、阿波との繋がりを示す何らかの痕跡が残されているだろうという話で、そのひとつが…

鹿の角

…と考えられるワケですが、「鹿の角」「赤備え」は分けて考えたほうが井伊…もとい、イイのかも知れません。

 「赤備え」のルーツは飯富虎昌にあり、かつ飯富氏は「多氏」の流れを汲むとされていることから、真田および武田の甲冑の意匠には、「多氏」+「忌部氏」の意味が込められていることになりますw。

 以上。次回があるかどうかはアレとして、今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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