「女城主直虎」がすでにはじまったというのにアレですが、先日スタートしたBS-TBSの新番組「諸説あり!」で真田幸村を取り上げたので、その内容について少し。
ひとつの視点に縛れず、様々な角度から歴史(真田幸村)の実像に迫ろうという番組なワケですが、ワタシとしては3番目の…
真田幸村は鹿児島に落ち延びた
…という説に強く惹かれた次第ですw。
真田家のみならず、主君の武田家も「鹿族」らしいコトは既に述べましたが、Wikipediaによると武田家の始祖は常陸国の出身とのコト。
「鹿男」シリーズでも書いたことですが、常陸国には武甕槌命を祀る鹿島大社があり、そして鹿島大社といえば…
鹿
…です。因みに那珂郡を流れる那珂川は、古くは「アワ川」と呼ばれていたことからすると、安房に上陸した阿波忌部氏が、陸路もしくは海路で常陸国まで移動した可能性が高いと思われます。
武甕槌命が常陸国に入るより先に、当地には甕星香香背男という豪族が根を張っていたことが『常陸風土記』に記され、また『日本書紀』のなかには甕星香香背男と同一の神と思われる天津甕星の記述が見られます。
天津甕星 – Wikipedia
高天原にいる「悪神」=天津甕星を討伐してから葦原中国平定を行うというコトは、高天原で神々の内紛があったというコトであり、おそらく天津甕星は高天原を追われたのではないか?
一方で、「高天原は阿波の地にあった」という説を唱える人たちもいます。
『日本書紀』に記された国産みの順番だと淡路島⇒四国とはじまるので、阿波(四国)は歴史上重要なポジションにあると言え、先の「高天原=阿波」という説も無碍に否定はできないワケです。
国産み – Wikipedia
で、高天原(阿波)を追われた天津甕星が向かった先が…
房総半島の安房
…と言う話で、すなわち「天津甕星」=「忌部氏」=「鹿」なのではないかと?
武田家および真田家が忌部氏の末裔であれば、鎧の意匠に「鹿の角」があしらわれるのは当然…もとい、必然だというコト。
話を真田幸村に戻すと、主君の武田家は鎌倉幕府の御家人だった時期に、御家人仲間の島津忠久とは顔見知りであったハズで、忠久は薩摩の守護に任ぜられ、幸村が島津家を頼って落ち延びたことも考えられます。
島津忠久 – Wikipedia
番組では真田家の家紋(六文銭)が刻まれた墓石が残る墓地が映し出されていましたが、大阪夏の陣の敗軍の将である真田家の家紋を有り難がる物好きもいないでしょうから、少なくとも真田家の関係者が南九州(薩摩)にまで落ち延びたコトは確か。
となると、豊臣秀頼も一緒に落ち延びたのか?という話になるワケですが、番組では秀頼については深く言及しませんでした。そ・こ・で、幸村と別れて落ち延びたとなると、向かった先は豊臣家の直轄地だった…
大分県日田市
…のような気がしますw(確たる根拠なし)。
人間ナメんなよ!
でわっ!
追記:
よっぽど「役」に惚れ込んだんでしょうなw。