歴史検証は薄皮を剥がすように

 太平洋戦争中、時の政府が「遷都」を策定していたとのコト。

 で、「天皇陛下」を奉るのであれば、御所の在る京都への遷都が「スジ」だと思うワケですが、瀬戸内海エリアと有明海エリアが遷都先に選ばれたのはなぜなのか?

 同時に韓国のソウルも候補に挙がっていたようで、この三つの地点を繋ぐものは何か?という話。
 

八女に「幻の首都」構想 太平洋戦争中に政府が検討 極秘文書に明記 [福岡県]
西日本新聞 2017年04月18日 06時00分


戦時中、政府が首都移転の候補地として考えていた旧福島町を含む八女市中心部

 八女が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき「八女遷都論」について調べてみた。

 「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」で公開されている。


中央計画素案の中で、首都の候補について記されている部分(国立公文書館のアジア歴史資料データベースより)

 この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。

 「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。

 首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。

 極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

 この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」

 もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。

 いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。

=2017/04/18付 西日本新聞朝刊=

 
 ソウルはさて措き、瀬戸内海エリアと有明海エリアで共通するのは…

古くから稲作が行われた地

…だというコト。すなわち…

「渡来人」による開拓が最も早い時期にはじまった地である

…というコト。
 


「日本人の源流を探して」 第2部 縄文稲作の究明

 
 紀元前1000年頃に日本で稲作が始まったとすると、中国ではちょうど「殷」から「周」へ王朝が入れ替わった時期にあたります。
 
殷 – Wikipedia
 


貝と羊の中国人 (新潮新書)
加藤 徹 (著)

本文抜粋

…近年の歴史研究の進歩により、今から三千年前の殷周革命が、日本人の誕生にも大きな影響を与えたこともわかってきた。2003年、日本の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は、北九州の弥生時代の遺物の年代を、放射性炭素年代測定法をつかって調査した。その結果、弥生時代の開始が従来の定説より五百年もさかのぼり、北九州では紀元前十世紀にすでに水田稲作が行われていたことが判明した。
 
殷周革命の激動によって、東アジアの諸民族が玉突きのように動き、それが北九州へ水稲稲作をもたらす契機となった、ということらしい。…

 
 現在尻切れトンボになっていますが、「邪馬台国」=大陸からの移民のコミュニティーの総称であったというワタシの仮説からすると、「邪馬台国」の所在地が特定されないのはその時々の力関係で一番有力なコミュニティーを…

邪馬台国

…として書き残したからではないか?という話になるワケです。『隋書』には…
 

阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以爲異,因行禱祭。
阿蘇山が有り、其の岩石は故無く噴火して天の者にまで接するので、俗衆は奇異と考え、因んで祈祭を行う。

 
…と記されていることから、熊本に有力なコミュニティーがあったことは確かですが、登場するのは「多利思北孤」であって…

「邪馬台国」=「卑弥呼」

…という従来からの「学説」とは合致しませんw。

 また、「多利思北孤」=「日出處天子」と、隋の煬帝への国書に書いたのは「厩戸の皇子」=「聖徳太子」という説もありますが、だとすると大業三年(607年)当時、朝廷は熊本にあったという話にもなりますw。
 

日出處天子至書日沒處天子無恙」云云
「日出ずる処の天子、恙無く日没する処の天子に書を至らしむ」云々

 
 そ・こ・で…
 
九州王朝
 
…の話になるワケですが、長くなるので八女…もとい、止めときますw。
 
八女(ヤメ)と矢部(ヤベ)
久留米地名研究会 永井 正範
 
 一方瀬戸内海(岡山)エリアですが、吉備国の存在は広く知られていますし、古くから稲作が行われていたことに加え、古墳の数も前方後円墳もまじえて相当数に上り、やはり有力な渡来人コミュニティーが存在していたコトは確かなようです。
 
吉備国 – Wikipedia
 
岡山の古墳一覧
 
 異端の歴史作家八切止夫氏によると、「白村江の戦い」の後に倭の国を支配していた中華系支配層に土着の豪族が一致団結して反旗を翻した際、形勢不利と観た中華系支配層は京の都から瀬戸内エリアに避難したとのコト。
 

『歴史の中のサンカ』

第4期 日本原住反抗期(桓武帝)西暦780=8世紀
 
 それというのも、瀬戸内エリアは中華系渡来人の古くからのホームグラウンドであり、岡山発祥で有名な「桃太郎」の話にしても、本来は「桃(トウ)」=「唐(トウ)」で…

唐太郎

…が原作であって、中華系渡来人が倭の国のまつろわぬ原住民=鬼を平定した歴史物語…というのが八切氏の見解。

 最後に「ソウル」ですが、歴史的には「帯方郡」が在ったとされるエリアで、「帯方郡」は公孫氏により創設され、なおかつ「卑弥呼」と公孫氏は縁が深いことが『晋書』でほのめかされていて、ザックリ言うと瀬戸内海、有明海、ソウルともに…

中華系の勢力圏

…だったというコト。そしてそうした地に…

「遷都」しようとした動機とは?

…という話w。
 

 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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