家康が信長を謀殺したとすると…

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 
 昨晩、BS日テレで「天正伊賀の乱」を取り上げた番組を視て…

信長を殺したのは家康では?

…と思った次第。

 時系列を整理すると、伊賀の里が信長軍に降伏した第二次天正伊賀の乱が1581年

 信長が本能寺で暗殺されるのが1582年

 で、先の番組で知ったのですが、信長の死後、伊賀衆はクーデターを起こし伊賀の里から信長勢を駆逐したとのコト。

 その後伊賀衆は、徳川家康の「伊賀越え」を手引きした功労により江戸幕府に仕えることになりますが、そもそも?家康は信長暗殺の知らせになぜ取り乱したのか?が疑問。
 
伊賀越え – Wikipedia
 
 いっぱしの戦国武将であれば…

次は俺の時代か?

…と希望に胸を膨らませるように思うワケで、何か心にやましいトコロがあったから取り乱した気がするワケですw。

 このモヤモヤさまw…もとい、モヤモヤ感を整理するに…

家康は伊賀衆とツルんで信長を暗殺したのではないか?

…と仮定すると、一連の流れがスッキリします。

 その他に知った事実として、伊賀と甲賀の間で通婚が交わされ、いわば同族関係にあったというコト。それで、家康の伊賀越えに甲賀衆が手を貸したと。

 信長は本能寺ごと火薬で吹き飛ばされたという説があり、火薬を手配したのはイエズス会だという書き込みをネット上で見かけますが、伊賀衆=忍者も火薬の扱いに長け、容疑者の可能性は十分です。
 
信長を殺害したのはイエズス会 – 秦野エイト会
 
 家康と伊賀衆がツルんでいたなら、信長の死に際して取り乱すのは不自然ですが、明智光秀が本能寺に入ったことで計画がバレたと狼狽したのかも知れませんw。

 この推論からすると、光秀は信長殺しの汚名を着せられた冤罪被害者w。

 本能寺の変では、信長、息子の信忠光秀の亡骸が発見されておらず、信長は爆殺されて跡形残らず吹き飛んだとしても、信忠、光秀は…

いずこへ?

…と推察するに、伊賀の里に拉致され生涯幽閉されたのかも?

 そこで気になるのが家康のブレーンであった天海僧正で、天海僧正=光秀という説をやはりネット上の動画などで見かけます。
 

 
 天海が表舞台に現れるのは家康が江戸に領地替えになるのと同時期になり、すなわち遠くの東国に離れ秀吉の目が届かなくなったのを見計らって、伊賀の里を出たとも考えられます。

 重要な役割を果たしていると目される伊賀衆ですが、そもそも…

忍者とは?

…という点について、先の番組では修験道の影響を多分に受けていると解説しています。修験道といえばその祖と崇められている役行者は、忍者のように怪しげな術を使ったとか。
 
役小角 – Wikipedia
 
 役行者は謀反の疑いを掛けられ、文武天皇によって伊豆に島流しにされていますが、このことは役行者が大きな影響力を持っていたことの裏返しであり、すなわち奈良時代においてすでに修験者ネットワークが存在していたというコトではないか?

 そしてそうした修験者ネットワーク=後世における忍者の登場の素地となったものはナンなのか?と考えるに…

忍者とは、自然科学の知識を備えた大陸からの渡来人の末裔ではなかったのか?

…というのがワタシの推論。

 伊賀の里が独立国のように振舞えたのも、先進の知識、軍備を有していたからで、そのルーツは秦氏に遡るのではないか?それゆえ服部(ハットリ)≒秦取(ハタトリ)というそれらしい苗字を名乗ったのではないか?という話w。

 今回はこれにて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

広告