地質学的視点からの歴史

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 前回、平城京および藤原京が造成された頃の奈良盆地の予想図を貼り付けましたが、「洪水マップ(Flood Map )」で検証すると、現在より約50m海水面が高かったコトになります。
 


Flood Map (ベータ版)

 
 縄文海進のピーク時でさえ5m程度の水位上昇と考えられているので、50mも海面が高かったらしいという事実?とどう向き合えばイイのか理解に苦しみます。

 加えて、先の水位を基準にして同時期の東日本はどうだったのか?となると、関東平野はほぼ水没している状態で、当然、人が住める場所は限られますw。
 

 
 実は先日、狭山丘陵の南側に接する瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市の各歴史資料館の共催による、「狭山丘陵と縄文時代」なる講演を聞きに行ったワケですが、講師いわく…

狭山丘陵まで海が侵入していた痕跡がある

…とのコト。だとするとですよ?現在より140m近く水位が高かったコトになり、縄文海進どころか旧約聖書に書かれている「ノアの大洪水」の話のような、全地球規模での海水面の上昇があったという話にもなりますw。

 ちなみに、中国の古代王朝「夏」「商(殷)」が都を築いたとされる陽城(河南省鄭州市登封)、殷墟(河南省安陽市)の両都が水辺に造成されたと仮定すると、当時の海水面はそれぞれ約140m(陽城)、約75m(殷墟)現在より水位が高かったのではないか?と「洪水マップ」から推測されます。

 つまり、狭山丘陵が波に洗われていた頃、大陸には「夏」王朝が存在していたというコト。時代が下り、海が後退して現れた新しい土地に「商(殷)」は都を造ったと考えられるワケですが、山東半島は島だったことが商(殷)の勢力範囲図からも伺えますw。
 


商朝 – 中国版wikipedia

 

 
 こうした痕跡?をどう考えればイイのかという話で、年を追うごとに海面水位は下がっていったと仮定するなら、藤原京、平城京が作られた当時関東平野はほぼ水没しており、したがって同時期に奈良に創建された春日大社に鹿島神宮から白鹿(神)を勧請しようにも、鹿島神宮自体が存在していないという話w。
 
さw、ヤヤコシクなってきましたw!
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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