石棺はローマ由来とか?

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 ロイターによると、盗掘を免れたローマ時代の石棺が見つかったそうなw。
 

セルビアの古代ローマ都市で無傷の石棺発見、遺骨と装飾品も
世界のこぼれ話2018年6月1日 / 15:07 / 6時間前更新

[KOSTOLAC(セルビア)31日 ロイター] – セルビアの考古学者らが、ベオグラード近郊の古代ローマ都市ビミナツィウムで無傷の石棺を発見した。中には、金銀で装飾された遺骨2体があったという。
 

 
現地の人類学者Ilija Mikic氏によると、遺骨のうち1人は長身の中年男性、1人はやせた若い女性のもの。女性は洗練された香水瓶3本と金のイヤリング、首飾り、銀の鏡、高価なヘアピンをもっていた。男性の周囲には、銀のベルト止めと、靴の残骸がおかれていた。

Mikic氏は、「埋葬物から見て、この2人は確実に、社会で上層の階級に属していたと判断できる」と述べた。

ビミナツィウムは軍事拠点で、起源1世紀ごろのモエシア・スペリオル属州の首都だった。競馬場、要塞、大広場、宮殿、神殿、円形劇場、水道(橋)、浴場、作業場があり、歴史家らは人口4万人を抱えていた可能性があるとしている。

ビミナツィウムは5世紀にフン族が破壊、ユスティニアヌス帝が再建したが、6世紀にスラブ族が破壊した。発見された石棺は、何世紀にもわたり、盗掘や農耕、付近の炭鉱操業による被害を免れてきたとみられている。

 
 で、写真の石棺が記事に書かれた石棺だとしたら、同じような石棺がフランスのアルルでも見つかってます。
 


アルル県立古代美術館

 
 ふたつを比較すると、形状は同じあってもセルビアの石棺には彫刻が施こされていないようですが、ローマ帝国の支配下であったセルビアには…

彫刻を生業にする職人がいなかった

…のではないか推察されます。きっと、腕のイイ職人は地方に行きたがらなかったんでしょうなw。

 そうなると、石棺という埋葬方式は踏襲しながらも、その装飾(彫刻)は、ローマから離れれば離れるほど劣化…というか、簡略化されていっただろうことは想像に難くありません。

 重要なのは石棺であるか否かで、中国の史書にも異国の埋葬様式が数多く書き記されていますが、基本的なポイントは棺と、槨と呼ばれる棺を納める空間。
 
古墳 – Wikipedia
 
 一番シンプルなのは亡骸をそのまま土葬にするだけで、身分が高くなると棺に納めての土葬になり、王族、貴族ともなると槨=地下空間を作って棺を安置。

 で、646年には「薄葬の詔」が出されるワケですが、以下がその内容。
 

孝徳天皇大化二年三月癸亥朔 甲申、詔日:

朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。
不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。
故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。
無藏金銀銅鐵。一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。
棺漆際會三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。

叉日、夫葬者藏也。欲人之不得見也。廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。

夫王以上之墓者、其内長九尺、濶五尺。其外域、方九尋、高五尋。役一千人、七日使訖。其葬時帷帳等、用白布。有轜車。

上臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方七尋、高三尋。役五百人、五日使訖。其葬時帷帳等、用白布。擔而行之。(蓋此以肩擔輿而送之乎)。

下臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方五尋、高二尋半。役二百五十人、三日使訖。其葬時帷帳等、用白布、亦准於上。

大仁・小仁之墓者、其内長九尺、高濶各四尺。不封使平。役一百人、一日使訖。

大禮以下、小智以上之墓者、皆准大仁。役五十人、一日使訖。

凡王以下、小智以上之墓者、宜用小石。其帷帳等、宜用白布。

庶民亡時、牧埋於地。其帷帳等、可用麁布。一日莫停。

凡王以下、及至庶民、不得營殯。
凡自畿内、及諸國等、宜定一所、而使収埋、不得汚穢散埋慮々。

凡人死亡之時、若經自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或爲亡人。藏賓於墓、或爲亡人、断髪刺股而誅。如此奮俗。一皆悉斷。

或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。

縦有違詔、犯所禁者、必罪其族。

『日本書紀』 巻第二十五

 
 ワザワザ埋葬方法を指示したというコトは、それまでは埋葬方法がバラバラだったというコト。即ち倭の国(日本)に渡来した異民族の間で埋葬方式が違っていたという事実の裏返しであり、その中で力を持ったグループ(大和朝廷)が中央集権を推し進める際の…

最初の一歩

…だったのかも知れませんw。

 となると、「薄葬の詔」の規定に合わない7世紀以降の古墳が見られる地域は、その当時、まだ大和朝廷の支配の外にあったのでは?という話。

 で、石棺の話に戻ると、数多くの石棺が日本の古墳からも発掘されているワケですが、石棺のルーツがローマに遡るとなると、例えば奈良県の市尾墓山古墳で発掘された石棺に副葬されていたガラス玉などは、その成分分析をしたら…

ローマ産だった!

…なんて話にもなるんですかね?
 


市尾墓山古墳

 
 ちなみに、奈良の平城宮跡から出土したおびただしい量の木簡には、渡来したペルシャ人が役人として働いていた事実が記されているワケですが、であるならば?ローマ人も渡来していたと考えても不自然じゃないでしょ?
 
木簡が国宝に!古都奈良の世界遺産・平城宮跡まとめ
 


『ローマ文化王国 ‐ 新羅』
由水 常雄 (著)

 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 
追記:


原発事故で立ち入れない双葉町に残る7世紀の装飾古墳 東北大が計測

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