自治社会=村社会

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 最近、江戸時代を見直す論説をよく目にしますが、そのなかのひとつを転載します。
 

【るいネット】 江戸時代は分権社会
北村浩司 (壮年 広報)

近年江戸時代に関する見直しが進んでいる。その結果教科書が描いてきた江戸時代像にはかなりの誤りがある事がわかってきた。
 
○ 江戸時代は分権社会

江戸時代を見るときに重要な視点は、分権社会であったという点であろう。江戸時代はいかにも武士だけが統治者であったかのような見方がされているが、それは誤りである。村の統治は村共同体が行い、町の統治は町共同体が行い、職人や芸能者などの仲間・座の統治は座共同体が行い、武士が行う統治行為は、このような社会的諸集団の範囲外にわたる問題だけであった。それは広域行政であり軍事であり、外交であったのだ。

例えば、近世の町も町を塀や堀で囲い、町の入り口には木戸を設けて、木戸番という武装した町人で守られていた。そして町内には自身番が設けられ、町名主(年寄)の指揮下で、武器を持った町人自身によって町の治安は守られていた。

町が行う行政は、奉行などからの触書の伝達や人別改め、防火と消火の取り締まりと手配、訴訟事件の和解工作、家屋敷の売買や譲渡などの証文案件の検閲、博打や勝負事の禁止など、町民の生活全般に渡っていた。

さらに近世において周辺農村からの大規模な人口流入に伴って生じた、し尿やゴミの処理問題や住宅問題、さらには飢饉に際しての救民事業なども、町の仕事であった。

つまり、江戸時代は縦のヒエラルキーに基づく身分社会ではなく、身分とは社会的分業に近いものだったとみた方が実情にあっている。

また身分も流動的である。各層の統治行為に携わる上層の人々は、武士と同様に名字・帯刀の権限を許され、それぞれの家職を遂行していた。そして婚姻や養子縁組という形をとって武士に「取りたて」られた例も数多い。

江戸時代中期くらいからは 百姓・町人や芸人が武士身分を購入して、武士になる事態も出現する(勝海舟や、新撰組等は典型事例)。或いは逆に 武士身分の者の中から商才に恵まれた者が商人になったり、分業が拡大していくにつれて生み出された新しい身分、つまり学者や医者、そして絵師や戯作者などに転身していく例も数多く見られる。若いときは武士=役人として務め、老年になってから医者や絵師等に転身する例も多く、これらは武士等の身分が階級制よりも社会的役割として認識されていたことの証左である。
 
○ 誤解されてきた五人組の制度

また、村もそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。

村には必ず村の掟が存在する。中世の村の掟との違いは、そこに領主が決めた掟の遵守と年貢の完済が挿入されたことだけで、あとは中世の村の掟と同様な内容である。

では村の掟は何を定めていたのだろうか。多くの村の掟に登場する決まりの中には、田畑荒らしの禁止と罰則規定や山林や野荒らしの禁止と罰則規程、用水の利用規定と罰則があった。田畑は村人の生活資材の供給地であったからそれを荒らして自分だけの利益を得ることは当然禁止された。
 
五人組を含め、近世の村のありかたを、従来の学説は過酷な収奪を行う幕藩制国家の支配機構として認識してきた。だから五人組や村は、年貢をしっかりとるために百姓に連帯責任を負わせるものと認識されてきた。しかしこれは、太平洋戦争に向かう中で、近世の五人組を範として隣組が作られ、隣組を核とした村や町が戦争遂行に人々を動員し、同調しないものを非国民として摘発する過程で生まれたイメージであった。

実際は五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組をつくり、村政を担ってきたことに由来している。そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからである。領主との間で取り決めた年貢高を村として納めるのであるから、家に分配された年貢高を払いきれない家があれば、他の裕福な家が肩代わりして年貢を納めるのは、共同体としての村の役割である。

つまり五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村落共同体としての機能であった。五人組とは相互扶助のための組織だったのである。
 
○ 村落における、名主、組頭、百姓代も合議・公選制だった

村落自治は「名主」、「組頭」、「百姓代」を中心に担われたが、それぞれが登場した背景には異なる理由があった。名主は当初有力百姓が世襲した。しかし名主は幕府や藩との折衝に携わったし、村の治安維持の元締めでもあり、個々の百姓に対する年貢負担の分配の差配の元締めでもあった。これが一つの家に世襲されることは、権力との癒着に繋がる。

それに対して「組頭」は五人組の長であり、しばしば五人組を幾つか束ねた集落単位の組の長であり、中世以来の惣村の年寄り衆の系譜を引いていた。

つまり組頭は村共同体の年寄りとして名主を補佐し村政を合議によって運営してきた者たちであったが、彼らを組頭として認定することで、村政を公的にも合議体制に移すこととなったのである。そしてこれに伴って名主は、組頭の中から選ばれるようになっていく

百姓代は、新田開発によって耕地が拡大し(17世紀に従来の約二倍に拡大する)、名主百姓の下人や百姓の次三男が独立して、一人前に耕地を持って年貢を負担する百姓の数が増えるとともに生まれた村役人であった。

それ以前は小前百姓と呼ばれた土地を持たない村人は、実際には村政に関ることができなかった。百姓代は、このような小前百姓の利益を代表して、名主・組頭を監視する役目として置かれ、百姓全体の投票で選出された役職であり、17世紀後半には登場し、享保期の18世紀前半に定着したものである。

 
 上記の論説に拠るなら、江戸時代の武士階級は社会全体の監督官であり、末端の町村の管理は、住人自らの手で行われていたというコト。

 つまり、自治が高度に発達したのが江戸時代であり、歴史教科書や時代劇で見られるような、ステレオタイプの封建社会ではなかったという話。

 見方を替えると、独立した閉鎖的自治体=村社会の集合体が、江戸時代の日本の国内体制であり…

「国家」としてのまとまりに欠けていた

…とも言えます。

 で、江戸時代も末期になると諸外国から開国を迫られ、「国家」として外交を結ぶ必要が生じるワケですが、国内は「攘夷」と「開国」に別れ内紛状態に…というのも、前述のように各自治体(藩)の独自性が高く、幕府の強権が行き渡らなかったから。

 そもそも、徳川幕府は「開国」を不可避と考え、一方で薩摩藩や長州藩は「攘夷」を掲げ、それぞれ英国と砲火を交えるワケですが、両藩とも敗戦して力量の違いを痛感し、180度方向転換して「開国」に鞍替えします。ただし、徳川幕府の主導による「開国」ではなく、薩長土肥の藩連合(明治政府)による「開国」を目指し、倒幕=戊辰戦争に突入。

 江戸時代は高度な自治が発達し、封建制度は最終的な局面でのみ効力を発揮した…というのは、「国家」という観点からすると…

一貫性に欠ける

…と言えるワケで、そうした一貫性の欠如が薩摩藩や長州藩の造反に繋がり、もし徳川幕府が「開国」および政権を維持できたとしても、国内に不安分子を抱えたままで、「国家」として諸外国と対等に対峙できたかどうかは、些か疑問です。

 徳川幕府の成立は「武力」によるものであり、「武力」がその存在理由なワケですから、「武力」によって覆されたとしても文句は言えません。そこで新政府=薩長土肥連合は「武力」ではなく…

権威=天皇

…を担ぎ上げることで、政権の安泰と「国としての一貫性」を担保しようと考え、明治維新を成し遂げます。

 で、何が言いたいかというと、江戸時代は高度な自治が発達していて「民主的」であった…と見直すのも吝かではないのですが、「物語」というワタシの視点からすると…

小さな物語

…に留まり、天皇=日本の歴史という…

大きな物語に内包されてしまう

…という話。日本全国どこにいっても「ヤマトタケル」の足跡だの、「~天皇」の行幸の記録だのが残されているでしょ?天皇家は徳川家よりも「大きな物語」であり、日本という「国家」を築く上で、明治政府にとっては必要不可欠であったというコト。

 で、過去においては、日本という「国家」をまとめるために、天皇という存在は不可欠な存在であったワケですが、現在は?

 ワタシなりの結論を述べるなら、現在、日本という国の国体(一貫性)を示しているのは…

日本国憲法

…であり、人間の尊厳を基盤とする『日本国憲法』は、天皇よりも「さらに大きな物語」だという話。天皇ですら…

「人間」という物語

…に内包されるワケですからw。
 

詔 書

茲に新年を迎う。顧みれば明治天皇明治の初国是として五箇条ノ御誓文を下し給えり。曰く、

広く会議を興し、万機公論に決すべし。
 
上下心を一にして、盛に経綸を行うべし。
 
官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まらざらしめんことを要す。
 
旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
 
智識を世界に求め、大に皇基を振起しべし。

叡旨公明正大、又何をか加えん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民拳げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし

大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は真に心を痛ましむるものあり。然りと雖も、我国民が現在の試煉に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克く其の結束を全うせば、独り我国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。

夫れ家を愛する心と国を愛する心とは我国に於て特に熱烈なるを見る。今ら実に此の心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努カを効すべきの秋なり。

惟うに長きに亘れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動もすれば焦躁に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて道義の念頗る衰え、為に思想混乱の兆あるは洵に深憂に堪えず。

然れども朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神(アキツミカミ)とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。

朕の政府は国民の試煉と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は我国民が時艱に蹶起し、当面の困苦克服の為に、又産業及文運振興の為に勇往せんことを希念す。

我国民が其の公民生活に於て団結し、相倚り相扶け、寛容相許すの気風を作興するに於ては、能く我至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。

斯の如きは実に我国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑わざるなり。

一年の計は年頭に在り、朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾う。
 
 
『人間宣言』 官報号外 昭和二十一年一月一日

 
間違った「物語」は、人を不幸にするだけw!
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!