役人てば…orz

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 早いものでもう一年の半分が過ぎたワケですが、日々に流される暮らしを振り返りこの半年で何か成し遂げたか?と省みるに…orz。

 とはいっても「葬儀」だの「法事」だのが重なってバタバタした時期もあって、ホンと…

あっ!という間の半年間

…でしたw。

 今年は氏子である地元の神社の夏祭りの役員にもなっていて、夏祭りが終わるまでは気が抜けませんw。老骨に鞭打って…

夏祭りさえ無事に終わってくれれば後はドーデモいw!

…という覚悟で差し迫るイベントを乗り切る所存。

 そんなワケで夏祭りの係員の調整(お願い)に、今年の年番になっている各氏子の家を廻っているワケですが、ご多分に漏れずどこの氏子も高齢化が進んでいて、太鼓担ぎなどの体力を要する係りなどは現実的に無理。それならばと、代わりに息子でも出てくれればイイのですが、これがナカナカ…。

 一緒に組んで役員を担っているワタシより若干年下の男性などは、人の集まりの悪さに嫌気がさし…

夏祭りなんてやめちまえ!

…と愚痴をこぼすことしきりなワケですが、ま、その気持ちもわかります。ワタシとて今回が初めての役員なので面食らうことばかり。

 何より意外だったのは、みんな案外地元のコトを知らない…というか、無関心で、自分の都合優先の家が多いという現実。

 それを否定するなんてとてもできませんが、自己優先の心理のバックボーンにあるのは共同体への参加意識の低下であるように思える次第。

 視点を替えると、共同体=地域コミュニティーに相互扶助の精神や機能が備わっていれば、共同体の存続と自分の生活とを切り離して考えることも無いのでしょうが、「村社会」というものは得てして「ミニ独裁国」のようなもので、「年寄衆」と呼ばれる意思決定機関に従がうのが慣わし。

 で、「年寄衆」は昔からの「しきたり」だとか「伝統」を頑なに守ろうとするワケですが、時代が変われば時代にそぐわない「伝統」だってあるワケです。

 いまの時代を生きる若者の目には理不尽に映る「伝統」であっても「年寄衆」には逆らえないという封建的な「村社会」にあって、自由や可能性を求める若者たちが「村社会」を去ってゆくのは当然の成り行きと言えます。

 そして「村社会」から若者が消えることで「村社会」は再生不可能に陥り、「過疎化」もしくは「消滅」する次第。これが現在日本各地でおきていることの真相w。
 

【共同】「過疎」の代替語検討へ、総務省 マイナス印象と
ヤフーニュース 7/2(火) 20:39配信

 過疎地域の支援策を検討する総務省の有識者懇談会は2日の会合で、離島や中山間地など人口減少が進む地域を指す「過疎」に関し、代わりとなる用語を検討する方針で一致した。近年、豊かな自然など都市とは異なる特性に魅力を感じる人が増加傾向にあり、マイナスのイメージがある言葉は実態に合わないと判断した。

 2020年3月に支援策の継続を求める提言をまとめ、検討結果も盛り込む見通し。過疎地の支援を定めた議員立法の過疎法が21年3月末で期限切れを迎えるため与野党の改正論議に反映させたい考えだ。

 総務省資料によると、過疎という言葉は昭和40年代に一般的に使われるようになった。

 
 「村社会」を離れ都市部に移住した若者たちにしても、「村社会」の「束縛」からは逃れられたにせよ、気心の知れた仲間のいない暮らしのなかで頼りになるのは「お金」であり、したがって「お金」の「束縛」のなかで暮らす羽目になるワケですから…

結局、束縛されるんかいっ!

…という話。そうなると畢竟…

すべてはお金次第

…という考えに凝り固まるでしょうし、それは「金融支配」にとって好都合…というか、そうなるように社会を誘導するだろうという話。

 総務省が「ヤラセ」で集めた有識者なんて、総務省が仕事をしているフリをアピールするためだけの「人形」にすぎず、過疎問題の本質に迫る気なんてさらさらありませんw。

 先に述べたように都市部に人を集めたほうが「金融支配」にとっては好都合なワケですから、総務省が本気で過疎に取り組むハズがないw

 で、話を「夏祭り(例大祭)」に戻すと、要は若者…というかその土地で暮らす老若男女が地元に愛着を持ってくれれば祭りの人手確保に苦労することも無いワケで、そのためには何が必要か?という話。

 その対策のひとつとして「公正さ」があるように思うワケで、「年寄衆」が絶対的な権限を持つような「村社会」では間違いなく先細り(過疎化)するだけw。
 
 かといって「伝統」を否定しろと短絡的なコトを勧めるつもりはありません。以前にも書いたコトがありますがそれが…

良い伝統なのか?悪い伝統なのか?

…を吟味する必要があると言いたいワケです。ブッチャケ、「伝統」は歴史上のどこかで誰かがつくりだしたものであって、それを作り出した意図が隠されているもの。

 そしてそれは往々にして時の支配者の意向を濃く反映しているもので、支配者目線であるとも言えますし、方や奴隷制度の名残という側面も。

 そうした経緯を知らず「伝統」に対して無批判に接するということは、自分という存在についてもあやふやなまま放置しているのに等しく、どこの地方都市でも見られるような…

新参住民に旧来住民が飲み込まれてしまう

…という逆転現象?の引き金にもなるワケです。

 ワタシの地元にしても転入者が増え、閉鎖的?な旧来住民(高齢者)は次第に肩身が狭くなりつつあります。ワタシも旧来住民のひとりとして頑なに過去=伝統にこだわり続ける「年寄衆」の気持ちもわからないではありません。なんせ、アイデンティティーが関わっていますから。

 とはいっても転入者=住人が増えるのは地域コミュニティーの存続にとってはプラスであり、子どもたちの未来のためにも新住民と折り合いをつけて共存しなければと思う次第。

 そこで旧住民に求められるのは、新住民に呑み込まれて地元の「伝統」が廃れてしまう前に先ずは「伝統」を再検証して…

残すものは残す

…という文化的行為(郷土愛)ではないか?という話。

 よしんば悪い伝統を残す必要があったにせよ、その理由(謂れ)を自覚していれば「負の遺産」として保存する道もあります。

 また、「ひとは物語を欲する」というワタシの持論からすると、新参住民にしても「伝統」という物語に参加することは吝かではありません。

 「夏祭り」の話からズイブン発展しましたが、要は、旧住民と新住民がいかに共存するか?という話で、これがスムーズにいけば「夏祭り」の人手確保に苦労しなくて済むというコトと、そもそも若者が離れていかない「公正なコミュニティー」の構築が先であり、それには「年寄衆」の意識改革(歴史認識)の必要性はもちろんのこと…

地元から日本を変える!

…といった意気込みを持った「威勢のイイ若者」の存在が不可欠。

 そしてそうした若者=人材を育てる環境整備なり、周囲の理解が絶対に必要だと思う次第w!
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!