アルジャーノンに花束を

“あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。”

“それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためだ。”

マハトマ・ガンディー


 もう30年も経つなんて実感湧かないわw。
 

 
 北多摩周辺は「新盆」のトコロが多く、ワタシもすでに墓掃除を済ませてきたワケですが、毎回、墓石に花を手向けながらフト頭をよぎるのが「アルジャーノンに花束を」。

 「曲」を先に聞いてから「本」を読んだのですが、切ないエンディングに涙…は流しませんでしたが「不条理」というか、映画「スケアクロウ」を観た後の何とも言えない「やりきれなさ」と同じものを感じた次第。

 「思い通りの人生」を送る人もいるでしょうが、ほとんどの人はそうならないのが現実でワタシにしても然り。思いもかけず頸椎腫瘍の摘出手術を受けることになり、その後遺症を一生引きずることになろうとは…orz

 それでも生きていかなくてはならない。というか、ワタシには「自殺」する勇気もなかったというコトなんでしょwなw。

 「人生に悲観する」と言われますが、そもそも「人生」って何なのよ?という話で、「人生」の捉え方は人それぞれあるんじゃないの?

 ワタシ自身に関して言えば、自然豊かな北多摩で生まれ育ったせいか「自然の恵み」を享受するというのも、「人生」…すなわち「生きていること」において重要な意味の一つであり、体は不自由になろうとも春夏秋冬の季節の変化を心が愛でている限り、「人生に悲観」する気にはなれないというコト。

 社会的地位がどうだとか、リア充がどうだとか、生活レベルがどうだとかという観点からすれば、ワタシなんて完全にアウトなワケですが、それでも自然は…こんなワタシにさえ平等にその「恵み」を分け与えてくれ、それは「自然」からワタシへの「生きてみなよ」というメッセージのようなもの…というのは勝手な思い込みにすぎませんが、ワタシはそう受け取るというだけの話。

 大雨が各地に被害をもたらしているように、自然は「災難」ももたらします。これはどうしようもありません。所詮人間は自然の前ではちっぽけな存在。

 人間にできることは「自然と共存」するコトであって、最先端技術の集積である「ロケット」だって天気が悪ければ打ち上げられませんw。

 その昔…江戸時代だったか?に日本を訪れた欧米人がたまたま地震に遭遇し、日本人が地震後のがれきを生き生きと片づけている様子を見て感心している記録が残されていますが、昔の人は現代人より自然を愛していたがゆえに、自然災害も無条件に受け入れていたのではないかと?

 もちろん現在と当時では社会状況も大きく変わり、そんな悠長なこと言ってられないのは分かるのですが、だとしたら変わったのは「自然」ではなく…

人の心が変わった

…というコトであり、それが悪いとは言いませんが一概にイイとも言えません。

 「差別」という概念が廃れ心が「進化」するのはイイことです。が、「身分的差別」が法的にも廃止される一方で、近代化の代名詞とも言える「金融」が新たな差別=「資産的差別」を生み出しているという、心の「退化」の側面があるのも否めません。

 ま、それはそれとして、昔から日本人は自然に対して感性が豊かであり、ワタシは特にそうした先祖のDNAを強く受け継いだがゆえに、体が不自由になったくらいでは「人生に悲観」する気になれないのかも知れません。

 それがイイのかどうかはアレとして、とりあえずはいま生きていることに感謝

死んで花実が咲くものか

…という諺?もありますが、これはこれでひとつの「真理」であり、また、どういった「花実」を咲かせるかは人それぞれにせよ、できれば…

心に花を咲かせましょう

…という話w。
 

 
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!