卑弥呼の生きた時代

【 期 間 限 定 拡 散 】

新型コロナ、首都圏 ほぼ全員 “既感染”!? 日本の死者が欧米より少ない要因の一つに「集団免疫説」 専門家の 新抗体検査 で明らかに
夕刊フジ 2020.8.14
 
 日本の 新型コロナウイルス感染 による 死者 や 重症者 が 欧米に比べて少ない 要因の一つとして浮上する「集団免疫説」。その 解明 に 光明 か。東京理科大学 の 村上康文教授 らは、新開発の検査システム を用いた首都圏での 抗体検査 で、従来の結果を大きく上回る数値が出たと明らかにした。注目すべきは、陽性 が出なかった例を含む 検体のほとんどで、すでに何らかのコロナウイルスに感染している「既感染」を示す反応があったことだ。免疫を獲得している可能性があるというのだ。

 抗体定量検査システムは、村上氏が設立したベンチャー企業が、民間企業の協力を得て開発した。
 
 13 日に 東京都内 で 記者会見 を開いた 村上氏らによると、5 ~ 8 月に東京など首都圏からボランティアで集めた 10 ~ 80 代から 362 検体を採取した。今回の検査では複数の抗原を用いるなどして精度を高めたところ、約 1 . 9 % で 陽性 の結果が出たという。
 
 厚生労働省 が実施した 抗体検査 では、東京の 抗体保有率 は 0 . 10 % で、これに比べるとはるかに高い水準だ。東京の人口比でみると、公表された累計感染者数( 13 日時点で 1 万 6680 )より大幅に多い 約 26 . 6 万人が、すでに新型コロナに感染 していると推測できる
 
 だが、一般に「集団免疫」が成立するには少なくとも 60 ~ 70 % の 抗体保有 が必要とされる。2 % 弱程度では 圧倒的に少ない ようにも思えるが、村上氏は 陽性の水準 に届かなかったものも含めて、ほぼ全ての 検体 で 抗体 の反応があったと明かす。
 
 免疫グロブリン(Ig)と呼ばれる 抗体 には複数の種類があり、抗体検査 の際、初感染では「IgM 抗体」の シグナル が最初に上がり、遅れて「IgG 抗体」が上がるとされるが、今回の検査では「ほぼ 例外 なく、IgM とIgG が同時 に上がった」と村上氏。
 
 村上氏は、両者の シグナル が同時に上がった場合、「既 感染(過去の コロナウイルス感染)」を意味する と説明。それが 新型コロナウイルス によるものか、過去のコロナウイルス による「交差反応」かなど、原因の解明については今後の課題としている。
 
 会見では、順天堂大学 の奥村康(こう)特任教授(免疫学)も ビデオメッセージ で、今回の 検査結果 について、「微量 の 抗体 でも ポジティブ に考えていいと思う」と コメント した。

 奥村氏は、免疫には、体内にある「自然免疫」と、ウイルスなど外敵と戦うことで構築される「獲得免疫」の 2 つがあるとしたうえで、獲得免疫 を 軍隊 に例え、「集団免疫 は 軍隊 の 総力、抗体 は ミサイル にあたる。ただ、ミサイル はなくとも軍は 訓練 されている場合、測る指標はない。抗体 が引っかからなくとも 免疫 はある」と 強調 した。
 
 前出の 村上氏 は今回の 検査結果 を踏まえたうえで、今後のとるべき コロナ対策 についてこう提言する。
 
「高齢者の場合、いったん重症化したら 1 カ月の入院になるので、病院が埋まってしまう。高齢者をどうしたら守れるかということに重点を置いて方策をやるべきだろうと考える」
 
 一方、会見に同席した 九州大学 の 藤野武彦名誉教授(健康科学)は、「自然免疫」の観点から、ストレス不安 と 自然免疫 の低下を媒介する「脳疲労」の概念を解説した。
 
ストレス不安 があると 自然免疫 は低下し、ウイルス に 感染 しやすくなる。コロナ不安 や 経済危機 自体が 免疫を劣化させる ので、臨機応変 に コロナ に対応しなければならない」と警鐘を鳴らした。
 
 
【主な新型コロナウイルスの検査方法】
 
 「抗体検査」は、新型コロナウイルス感染から一定期間たった後に体内にできる抗体を、少量の血液から検出する。症状が出ない場合や病院に行かないまま回復した例を含めて、過去にどのくらいの人が感染したのかを把握するのに役立つとされる。
 
 現在国内で主に使われているのは「PCR法」。鼻の奥を綿棒でこすって採取した粘液などに含まれているウイルスに特有の遺伝子配列を、専用装置で増やして検出する。確認されれば陽性となる。
 
 このほか、インフルエンザの迅速診断で使われているような、ウイルス特有のタンパク質にくっつく物質を使って患者の検体からウイルスを見つける「抗原検査」がある。

 


 日本の 平安時代 にあたる 1145 年に 高麗で編纂 された『 三国史記 』「 新羅本記 」には、第 8 代 新羅王 阿達羅尼師今 の在位中に 卑弥呼 の遣使が 新羅 を表敬訪問したと記されています。
 

二十年 夏五月 倭女王 卑彌乎 遣使來聘

 
 阿達羅尼師今 の 在位期間 は 154 年 ~ 184 年とされているので、在位 20 年目は 174 年。『 後漢書 』には、桓帝 と 霊帝 にまたがる時代( 146 年 ~ 189 年 )に 倭の国 は大きく乱れその間に 卑弥呼 が共立された と記されているので、174 年より前に 卑弥呼 は王に共立され、新羅 に表敬の遣使が訪れた という話。

 「魏志倭人伝」では景初二年( 237 年 )6 月になって初めて 難升米 らを 帯方郡 に遣わせたとあり、「 新羅本記 」からすると 卑弥呼 が王に即位してから約 60 年後 のこと。当然、卑弥呼 はすでに 老齢 に達していて、ゆえに「倭人伝」に「年已長大」と記されているのも納得。

 174 年の 新羅 表敬訪問 が 卑弥呼 の共立直後だとすると、壹与 と同じく 10 歳そこそこで女王に共立され、まだ幼く 政務能力 など皆無なので 実権 は 卑弥呼 を共立した取り巻きに握られ、卑弥呼 自身は 生涯 政治から遠ざけられていた(幽閉されていた)のかも知れません。
 

自 爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 傳辭 出入居處
王になって以来 見る者は少ない。千人の奴婢を自ら侍らすも、ただ一人の男子だけが、飲食の給仕や伝辞で居処に出入りする。

 
 「卑彌呼 以死」を、狗奴国 との間の 紛争責任 を負って死んだとも 解釈可能 だと思っていましたが、高齢 による 衰弱死 という線も考えられ、というのも、もし 紛争責任 を負って 自死 もしくは 排除 されたとすると、100 人余りも殉葬されるか?と。翻って 自然死(衰弱死)であれば、側に仕えた奴婢たちも その死を心から痛み殉死をも受け容れる だろうと。

 要は、卑弥呼 は幼くして 女王 に共立され、政治から遠ざけられたまま 老齢 で 寿命 が尽きて死んだのではないか?というコト。

 ちなみに「 新羅本記 」に目を通すと、4 世紀末から 5 世紀にかけて 倭人 がしきりに 新羅 に攻め入った ことが見て取れます。その一方で「 百済本記 」および「 高句麗本記 」には そうした記述は見られず、「 百済本記 」には倭の国 との 親交 の様子が記されているのみで、「 高句麗本記 」に至っては 倭人 の記述は ゼロ

 『 三国史記 』は 高麗で編纂 されたものなので、ある程度は「 高麗史観 」に染まっていると考えられるにせよ、新羅 に関して 忖度?する謂れは無いワケですから「 新羅本記 」の内容は 概ね事実 というのがワタシの見解。そこで疑問は…

「倭の国」は なぜ執拗 に 新羅 に攻め込んだのか?

…というコト。

 ではまた。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!