『ユダヤの告白』

第五章:
日本を操ったアイゼンバーグ

 
 
■ ドイツ脱出の謎

日本に対する情報工作がどのような形で進められるかをより広い角度から眺めるために、政治、金融面での単なる情報工作の枠を超えた秘密工作の中身を見ることにする。それにはイスラエルの誇る一人の人物が携わっている。

その人物の名前はショール・アイゼンバーグ。極東で過去50年間工作に従事してきた億万長者である。彼はイスラエルのためだけではなく、アメリカの情報組織のためにも働いてきた。事実、アイゼンバーグは極東での米・イスラエル共同作戦の橋渡しをする重要人物の一人だった。だが、彼の活動や事業は極東にとどまらない。これから見るように、アイゼンバーグの世界を股にかけた行動力は、国家や文化といった彼のアイデンティティーを超えたもので、静かなる「へンリー・キッシンジャー」とさえ言うことができる。

ビジネスマンと言うにはあまりにも秘密の部分が多いアイゼンバーグという人物を正しく捉えるには、彼の出生地、1926年のドイツのミュンへンにまで遡らなけれぱならない。何人かのイスラエルのジャーナリストが彼の出生の真実を探ろうと試みたが、イスラエル当局から咎められた。そうしたイスラエルのジャーナリストの一人、イーガール・ラヴィブは、アイゼンバーグが組織犯罪に関与していた多くの事件を暴露しようとした件で三ヶ月の禁固刑に処せられた。

こういった妨害があったにせよ、彼の出生地はミュンへンだと推定される。彼の両親は、ポーランドに属するガリチアのユダヤ人で、19世紀終わりごろにドイツへやって来た。彼の子供時代、それにそのころの彼の両親のことは秘密のままである。だが、アイゼンバーグ一家はナチが政権を取ってからも急いで脱出することはせず、1938年までドイツに留まっていた。

少年だったアイゼンバーグは、1938年から39年にかけて出国を計画した。ドイツアルプス越えの脱出は難しくはない。偽旅券を手に彼はとうとうスイスに逃れた。そして猛威をふるうドイツ軍を避けながら、スイスから西ヨーロッパに移動を開始した。彼に関する記録を見ても、どのようにして彼がこのヨーロッパにまたがる逃避行を無事やりおおせたのかは決して分からない。いずれにしても、1940年の終わりにはアイゼンバーグはオランダにいた
 
 
■ 戦時下のドイツを脱出

ここで注目する必要があるのは、1938年以降にドイツから脱出できたユダヤ人がほとんどいなかったという事実である。ドイツにおいてはナチの手で「ユダヤ人法」が1933年から34年にかけて制定された後、1936年からはユダヤ人狩りと強制収容所への移送が始まった。1938年までに、在独ユダヤ人は事実上全員が収容所に送り込まれつつあった。

ドイツにいたもう一人のユダヤ人、ハインツ(後にへンリー)・キッシンジャーも、同胞が被った運命を逃れるべく1938年にドイツを脱出したというのは、何とも皮肉である。

当時のドイツ国内で一体何が起こっており、また何100万人ものユダヤ人が脱出できなかったにもかかわらず、特定のユダヤ人がどうしてドイツから出国できたのかを理解するためには、今まで語られていなかったことを話す必要がある。どのようにしてキッシンジャー一家は脱出できたのか。ゲシュタボが捕えにやって来る前に、ショール・アイゼンバーグのような比較的貧しい労働者階級のユダヤ人がどうして脱出することができたのか。

ヨーロッパにおけるシオニストの組織は比較的弱体であり、ユダヤ人の移民を担当するユダヤ機関で、その頭文字を取って「モサド」と呼ばれていた組織には、ヨーロッパのユダヤ人を救うだけの資金も能力もほとんどなかった。ドイツにいたユダヤ人の間では、シオニズムは大きな運動にはならなかった。彼らは自分たちが良きドイツ人としてドイツに同化していると思っており、その多くは第一次世界大戦ではドイツのために戦った。したがって、アイゼンバーグやキッシンジャーのケースはもっと注意深く調べてみる必要がある。
 

 
歴史的に見て、ドイツにいたユダヤ人はドイツ共産党を牛耳っていた。社会民主主義者、共産主義者を問わず、労働者階級による政治運動が始まった当初から、ドイツのユダヤ人はこの運動を主導し支配してきた。また、当時ドイツのユダヤ人の多くはドイツ共産党(KPD)の党員であり、モスクワの支配下にあった地下組織の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。

コミンテルン、それにソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局は、幹部諜報部員をヨーロッパから徴募するという秘密の方針を立てていた。モスクワと関係のある家族に特に目がつけられ、多くの場合、単に個々人の機知や賢明さに基づいてヨーロッパから連れ出された。
 
 
■ キッシンジャーとは何者か

だが、ドイツのユダヤ人には脱出のための特別の手が差し出された。シオニスト機関は、在独ユダヤ人についてはパレスチナに喜んで移住する者だけを受け入れた。つまり後にイスラエル国家となるパレスチナに移ることを約束した者だけを助けたのである。

国際救助委員会といった組織を通じて何とか脱出しようとした人々もいたが、彼らはソ連や英米の諜報員の人たちだった。したがって、アイゼンバーグとかキッシンジャーのような人たちが、少年時代にこういった情報組織の一つにその才能ゆえに抜擢され、後にこの情報組織とのコネで出世したということは充分有り得る。

CIA防諜担当局の元局長だったジェームズ・ジーザス・アンジェルトンの記録によれば、キッシンジャーは長きにわたってソ連のスパイだった可能性がある。というのも、彼の父親がバイエルン地方のソ連のNKVDと接触があったからだ。様々な理由から定期的に内容がリークされる公式記録によると、キッシンジャーは「ボーア(Bor)というコード・ネーム(暗号名)を持っていたという。

キッシンジャーに関する記録の内容が正確かどうかは、今もってアメリカ情報関係者の論議の的になっている。我々は先にも述べたようにキッシンジャーは国際銀行資本と結び付いた特殊工作班に属しているとの見方をとっている。つまりロスチャイルド家とウォーバーグ家に繋がっている上に、イギリス情報組織とも関係があると見ている。キッシンジャーが政権の内にあっても外にあっても様々な経路を通じてソ連と繋がっているのは、ロスチャイルドやウォーバーグとの結び付きがあるからである。彼がアンジェルトンが考えるようにソ連のスパイなのか、それとも意図があって大物ソ連スパイとして振舞っているのかは、事実がどうなのかという問題ではなく単に定義の問題であるにすぎない。
 
 
■ アンジェル卜ンの考え

だが、キッシンジャーに関するアンジェルトンの考え方を正しく理解するためには、ソ連、中国それに彼もその一員だった英米の各エスタブリッシュメントに関して、アンジェルトンが考えていた大前提というものを見てみる必要がある。

今はもう亡くなったアンジェルトンは、共産主義者の陰謀は実際に存在し中ソ分裂は見せかけにすぎず、ソ連はCIAにトップ・レベルの工作員を送り込んでおり、その工作員がCIAを弱体化しほとんど崩壊させてしまったと考えていた。キッシンジャーがソ連相手に行ったことの内容や、彼が密かに図っていた共産中国との国交回復も長い目で見ればソ連の利益になることなどを考え併せると、キッシンジャーはソ連情報組織のために働いていたというのがアンジェルトンが諜報活動を行う上での前提だった。

こういう考え方に立った結果、アンジェルトンはソ連やその諜報活動に関してパラノイア(妄想症患者)的見方をするようになった。彼はソ連やその情報活動が優勢な地域での工作では、自国の諜報活動をもはや信頼しなくなった。というのはアメリカがどんな工作を行ってもソ連は簡単にそれを自分のいいようにしてしまうことができると恐れたからである。

こういった精神構造と行動の結果、アンジェルトンはロシアのユダヤ人の中に入り込んだシオニストを利用する計画をはじめ、様々なプロジェクトにイスラエル情報機関を使うようになった。この工作はすべてイスラエル情報機関と正式な提携関係にあったアンジェルトンの防諜担当局に任されていた。

こうしたチャンネルを通じて、アンジェルトンはその他のいくつかのプロジェクトにおいても、イスラエルとの間に秘密の裏ルートを持っていた。アメリカの諜報活動の中でイスラエル情報機関が決定的な役割を果たしているこうしたプロジェクトに、キッシンジャーも関係していたというのは皮肉なことだが、事実である。元CIA職員によると、こうした意味において、それに他の複雑な理由もあって、アンジェルトンはソ連とイスラエル双方の情報機関に操られていたとされているという。

こうした見方からすれば、アンジェルトンにはアメリカに対して仕掛けられた工作の本当のところは分かっていなかったと思われる。ソ連の工作員、あるいはソ連の息のかかった人物だとアンジェルトンが考えた人物の多くは、イギリスかイスラエルの工作員だったと考えられる。

いずれにしても、アイゼンバーグとキッシンジャーの両者について言えるのは、二人のナチス・ドイツから脱出した経緯、そして後に情報合戦の国際舞台で大きな役割を果たすようになったことを考え併せるとき、もともといかなる基盤もなかったところからどうしてかかる権力者の地位にまで上りつめることができたのかが、不可解だということである。

ところでキッシンジャーは大々的に名前が売れ、世間の脚光を一身に浴びているのに対し、アイゼンバーグの方は全くその逆である。
 
 
■ 上海から日本ヘ

アイゼンバーグに話を戻そう。世界が第二次世界大戦に突入した後、彼はオランダを出て中国の上海に移ろうとした。一体全体、どういうわけでアイゼンバーグのような人間が、上海のような場所で骨を埋めようなどと考えたのか。当時の上海は陰謀が渦巻く世界、堕落、生き馬の目を抜く激烈なビジネスといったことが同時に起こる所として、その評判は凄じいものだった。

上海に行こうとしたことは、アイゼンバーグのミステリーの中でも極めて興味深く、かつ陰謀の臭いのするところである。というのは、上海は、日本、ソ連、イギリス、ドイツ、アメリカをはじめ、すべての国の対中諜報活動の拠点が置かれた街であったからである。この街はまた、ロシア人とユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在した場所でもあった。

上海は、当時の主だった情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。そして亡命ユダヤ人の多くは、コミンテルンやGRUの情報組織のメンバーだった。イギリス人のために活動した者もいたし、日本人のために働くようになった者も一部いた。
 
 
■ ゾルゲと共に日本潜入

ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作は、アメリカ人女性のアグネス・スメドレーを使ったものである。裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーは、共産主義運動に参加し、その後極東におけるソ連の諜報活動の中でも最も重要な工作に従事するため上海へやって来た。彼女を操っていたのがかの悪名高いソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲは当初コミンテルンのために働いていたが、後にGRU第四局に移った。当時の日本の政策を潰すために、彼は日本人だけではなく中国人の共産主義者、ドイツ系ユダヤ人、その他のヨーロッパ人たちを採用した。

1920年代から1930年代にかけ、従来からあった上海のソ連情報組織は、この工作によって強化された。共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、第四局も極めて巧妙な秘密工作を行った。それによってクレムリンは、この地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができた。彼らは日本による真珠湾攻撃に関する情報も事前に入手していた。

リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のGRU第四局の中心的工作員であった。アイゼンバーグがゾルゲの率いる諜報グループの一員だったという直接的な証拠はないにしても、ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイのトップになったときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。

ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの8年間を自らの偽装のために費やしている。彼は日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンバーグも含まれていたと思われる。
 
 
■ 永野重雄氏とのコンタクト

1940年にアイゼンバーグが来日したということには、どこか不吉な予感がする。日本へ来て何ヶ月もたたない間に、彼は日本人女性と結婚した一人のオーストリア人亡命者に接触を図ろうとしていた。そのオーストリア人は画家で、1936年のナチによるオーストリア併合の後も本国とのコンタクトを続けていた。

ここでアイゼンバーグの経歴に再び前と同じような不可解な様相が現れてくる。彼は、このオーストリア人と日本人の夫妻の娘と結婚したのである。彼の妻は後にユダヤ教に改宗した。彼は、官僚の家系だった妻の母方のコネにより、日本財界の大物の一人である永野重雄氏と出会う。永野氏は新日本製鉄の創始者で、戦後における日本経済の復興を指導した人物である。

戦時中アイゼンバーグが何を行っていたかについての記録はないし、彼もそれを明らかにすることを拒んでいる。だが終戦直後、永野氏との関係を通じてアイゼンバーグは、当時の日本で大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。

アイゼンバーグは日本国籍を有していた。アメリカ進駐軍当局は、占領下の日本人がある種の事業を始めることは禁じていたが、アイゼンバーグに対してはそれを全く自由に始めて良いと認めた。彼が一大事業集団を築き上げることになった手初めの大プロジェクトは、オーストラリアとフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを日本の鉄鋼メーカー、とりわけ新日本製鉄の前身である八幡製鉄に売るというものだった。彼の事業は急拡大し、また日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンバーグは日本財界による戦後初の訪米を計画した。彼はアメリカ政府との交渉においては日本の製鉄業界を代表して事に当たった。

この訪米旅行に際し、アイゼンバーグはスクラップ金属事業と軍事機密を扱う事業を興し、それらを統合した。彼は帰国後は、進駐軍当局向けに台所の流し台から浴槽まで様々な家庭用品をつくる工場を三つ建てた。また彼は、事業拡大とともに日本国内での政治権力をも手にするようになった。日本人が独立した力を行使できないような場合には、アイゼンバーグが大抵その肩代りを行った
 
 
■ 日本発進の網をはる

そういう中で、アイゼンバーグが一躍世界的なビジネス・コネクションを手に入れるきっかけとなったのは、イギリス政府が同国の国有会社であるインぺリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の日本での代表者として彼を指名したことだった。

イギリスの大手国有企業の例にもれず、ICIもイギリス情報機関の秘密工作やスパイ活動に利用された。アイゼンバーグがICIの仕事をすることになった時、イギリス情報機関は日本国内での活動にはある程度の歯止めをかけた。というのも、ダグラス・マッカーサー将軍がイギリス人や彼らの情報活動に対し終始敵意を抱いていたからである。

戦時中、マッカーサーはイギリスのアメリカ国務省への政策介入を非難したことがあったし、戦略事務局(OSS)がつくられた裏にイギリスの意図が働いていたとして、南西太平洋地域での軍事作戦にOSSが介在することを拒否した。日本の情報記録を調べてゾルゲ一味の背景と実体を暴いたのも、マッカーサー配下の軍情報部だった。マッカーサー側近の軍情報将校だった人によると、その関係者の中にショール・アイゼンバーグという名前が挙がったことがあったが、ビジネスの絡みから、彼の件は別にされてしまったという。
 
 
■ 日本財界ヘの深き恨み

アイゼンバーグだけを他から切り離すことによって、アメリカ政府筋はアイゼンバーグの日本での事業をさらに拡大し、韓国にまで展開する途を開いた。実際、彼にとっては韓国の事業拠点の方が日本の拠点より重要になった。アイゼンバーグが最初に韓国に行った時は、オーストリアのパスポートを使っていた。彼はオーストリア人ではなくなっていたのだが、「ユダヤ人」と言われることを恐れて義父が彼のためにオーストリアのパスポートを用意してやったのである。

引退したアメリカの外交官の一人が、アイゼンバーグの活動について次のように語っている。

「当初、韓国へは一種の国際金融業務を行う形で入った(アイゼンバーグが韓国で事業を開始したのは停戦後の1953年だった)。アイゼンバーグは成功する見込みの無いことに手を出し、これに資金を注ぎ込むことによって、彼が利用しようと目を付けていた一部の地元人士の信頼を勝ち取ろうとしていた。」

アイゼンバーグは韓国で建設とエネルギー業務に進出し、それによって得た利益で韓国産業の発展に大きな貢献を果たした。彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンバーグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しに掛かったことにある。

1982年1月14日付『ニューョーク・タイムズ』紙に載ったアイゼンバーグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。

「我々は日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。25年あるいは30年前には日本人は我々を必要としたが、今では我々を必要としていない」 と。

アイゼンバーグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。1950年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンバーグは決して許してはいない。アメリカの情報関係者の中には、アイゼンバーグの恨みから、ADLのジャパン・バッシング計画は徹底したものになると見る人たちがいる。
 
 
■ アイゼンバーグとADL

1950年代、60年代にわたって、アイゼンバーグは原材料の手当や資金調達に自分が持っている南米コネクションを利用し、それによって極東における自らの帝国拡大を図った。彼の大がかりな帝国の中枢となっている企業は、1960年にパナマにおいて設立されたユナイテッド・ディべロップメント・コーポレーションである。当時の彼の事業は、電力、製鉄、鉄道、電話、セメント、繊維、化学、潅漑、コーヒーの各分野にわたっていた。

また彼の事業は約40ヶ国にも及んでいた。アメリカにおける彼のコネクションは、シオニスト・ロビーの大物たちが関係する金融ネットワークに及んでいるが、その中でも鍵となる人物は、フィリップ・クラツニックである。

フィリップ・クラツニックは、アメリカのシオニスト・ロビーの中でも最も力のある人物の一人である。彼はカーター大統領の下で商務長官を務めたばかりではなく、ブナイ・ブリスとADLを今日のアメリカの社会の中で最強の組織に変身させた人物でもある。

ブナイ・ブリスの会長を20年間務めた後も、シカゴに住むクラツニックは、企業や金融機関とのコネクションを通じてティッシュ一族と同等の力を依然有している。シオニスト・ロビーがアメリカの政治を締め付ける力を強固なものにすることができたのは、カーター政権時代のことだった。クラッニックは、ソル・リノヴィッツをカーター政権内に招き入れた。リノヴィッツは、クラツニックとアイゼンバーグの友人であるだけではなく、彼らの仕事上でのパートナーでもある。
 
 
■ 見えざるユダヤ組繊の網

本書を通してわれわれが強調したいのは、個々の人物たちのこうした強力な結び付きは、単に強いコネを持った人たちが存在しているというだけではなく、世界中に及ぶ巨大な組織の存在によって裏打ちされているということである。

カーター政権の財務長官だったウェルナー・マイケル・ブルメンソールという一人の人物がいる。中国の上海で育ったブルメンソールは、ナチから逃れたドイツ系ユダヤ難民の1人である。今日、ブルメンソールは、ミシガン州に本拠のあるべンディックス・コーポレーションのトップであり、今も国際通商政策を陰で操っている。彼が上海にいた時、アイゼンバーグとは親しい友人の間柄だったのではないか、という質問については二人ともそれを否定する。だが、二人が同じような経歴をへていることと、互いに密接に関係するようになっているという事実は、何かがあることを示唆している。
 


ブルメンソール(左から二人目)

 
個々の人たちがこのように結び付き、政治的経済的連携を図ることができたのは、ロックフェラーやロスチャイルドの後ろ楯のおかげである。彼らの情報活動の拠点は、今日でもアメリカ、イギリス、イスラエルの三ヶ国である。

アイゼンバーグ、クラッニック、リノヴィツといった人物からなるこの人脈ができたのは、単に運が良かったからとか、ロスチャイルド家の支援があったからというだけのものではない。これには、もう1人の不可解な人物、ティボー・ローゼンバウムが果たした役割が大きい。彼はハンガリー出身のユダヤ人でジュネーブにスイス・イスラエル貿易銀行を設立した。ロスチャイルドが3分の1を直接出資していたこの銀行が、スパイ工作の隠れ蓑として利用されたアイゼンバーグの数多くのハイテク企業に資金を供与したのである。

スイス・イスラエル貿易銀行の役員にアブラハム・ファインバーグが名を連ねている。彼はイスラエル建国の際、シオニズムの主流を占めた軍事組織であるハガナを支援したアメリカ人グループの代表だった。また、役員としてフィリップ・クラツニック、デヴィッド・グラヴィエの名前もある。グラヴィエは極めて示唆に富んだ人物である。
 
 
■ 利用された「パキスタンの核」

1960年代にローゼンバウムが設立したスイス・イスラエル貿易銀行の別会社として、もう一つの銀行が設立された。それを動かしたのがクラツニックと、アルゼンチン生まれのユダヤ人デヴィッド・グラヴィエだった。このもう一つの銀行は、アメリカン・バンク・アンド・トラスト(ABT)と称した。CIAとモサドが所有するこの銀行は、麻薬の利益の洗浄(ローンダリング)を行う機関であった。

彼らのビジネスの相手だったショール・アイゼンバーグは、そこで借受けた資金をいくつかの秘密プロジェクトのために使った。そのプロジェクトの一つが、パキスタンでの原子力発電所建設であった。これによりパキスタンは原爆用の材料を得ることができるようになった。

1970年代に「イスラムの核」が大きな話題になったことがあった。ガイス・ファラオンというエジプト人と、その仲間のロジャー・タマラズというレバノン人の二人が、アイゼンバーグとブロンフマンになり代わってパキスタンとの取引に当たった。この取引にはカナダ政府も絡んでおり、同国政府はカナダ型重水原子炉の輸出認可状をアイゼンバーグの会社に交付していた。

この取引を受けて、アメリカ人とイスラエル人からなるこのような人たちは、パキスタンが原爆を開発しつつあると叫んで一大宣伝を開始した。

だがこのキャンべーンの狙いは、パキスタン人が原爆を手にするのを阻止することではなく、イスラムや第三世界の国々による核兵器開発技術の入手に反対する世論を世界中に起こすことだった。つまり、国情の不安定なイスラム国家が原爆をつくる目的でそれに必要な技術を手に入れようとするのを、「文明」諸国が見過ごすことなどどうしてできようか、という世論を巻き起こしたかったのである。

彼らは結局のところ、そんな国の原爆開発に手を貸してはいけない、という見本にパキスタンを仕立てたのである。

つまりアイゼンバーグたちがパキスタンの原子力発電建設に手を貸した際密かに狙っていたのは、アラブやイスラムのどの国であろうと原子力技術に手でも出せば、即ちそれが西側の利益にとって「脅威」となるという風潮を生み出すことであった。

またパキスタンで原子力発電計画が持ち上がったその時に、当時の大統領ズフィカル・アリ・ブットがより過激なイスラム原理主義者の手で倒されたことも思い出してみるべきである。へンリー・キッシンジャーは、パキスタンが原子力エネルギーを持つことを望んでいるとして、ブットを公に攻撃していた。そして1981年6月にイスラエル空軍がイラクの原子炉を急襲したときに、このパキスタンの「事例」が再確認されたわけである。

ABTが麻薬の資金洗浄を大々的に行っている銀行の一つだということは、前に述べた通りであるが、リノヴィツのパートナーであったデヴィッド・グラヴィエは、ABTのカネ4,500万ドルを横領した罪と麻薬の資金洗浄行為に関与した罪で起訴された。

だが1978年、偶然とおぽしき飛行機事故によってグラヴィエは消えてしまった。ところでグラヴィェの活動を調査した中で興味深い点の一つは、彼がラテン・アメリカのいくつかのテロ組織に資金を供給していたことである。さらにここで触れておかねばならないのは、1978年のパナマ運河協定の交渉の際、オマル・トリホスを相手にこれを行ったのがADLのトップでもあったリノヴィッツだったことである。トリホスはその後1982年に飛行機事故で暗殺された。
 
 
■ ノリ工ガだけが悪玉か

すでに述べた通り、アイゼンバーグがラテン・アメリカに最初の本格的な会社を設立したのはパナマにおいてであり、それは1960年のことだった。そしてパナマでトリホスが暗殺された後その後釜に座ったのが、今やその座も追われてしまったマヌエル・ノリエガだった。ノリエガは日本の協力を得て第二パナマ運河を造ろうとしていた。事実、1980年代初頭に、駐日パナマ大使が新日本製鉄の最高首脳だった永野氏を訪ねてこのプロジェクトに対する支援を申し入れている。

だが、このプロジェクトが大きく前進したのは、ノリエガがニカラグアのコントラ支援をアメリカとイスラエルから求められ、それを呑まされた時のことであった。その際、ノリエガはイスラエル情報部の工作員であったマイク・ハラリと親密な関係を持つようになった。

ハラリはノリエガの顧問になった。ノリエガが第二パナマ運河計画の達成を望んだにもかかわらず、ハラリや彼のイスラエルとアメリカの友人たちは、コントラの援助資金を調達するために麻薬を扱うアイゼンバーグの組織を築き上げ、マスコミはヒステリックな反ノリエガ・キャンペーンを張り、彼に「麻薬王」のレッテルを貼ってこれを葬ろうとした。そしてブッシュ政権はノリエガを引きずり下ろしてしまったが、ハラリとその仲間の工作員の方は見逃した。

日本の提案によるノリエガ政権下での第二パナマ運河建設が、建設資金のみならずそれに必要な技術供与についてもこれを行うことで日パ両国間の合意が成立した後になって、アメリカとイスラエルによって阻止されたのは不思議ではなかろうか。

アイゼンバーグの活動に対する資金援助の構図をさらに幅広く辿っていくと、一味のリストの中にもう一人の金融界の人物の名が挙がってくる。その名はエドムンド・サフラ。リパブリック・バンク・オブ・ニューヨークのオーナーであるとともに、アメリカン・エキスプレスを買収、顧問の一人にヘンリー・キッシンジャーを招き入れた人物である。

サフラは、シリアのアレッポで生まれたユダヤ人で、ブラジルで成長した。彼は自分の銀行であるジュネーブ貿易開発銀行を通じてアメリカン・エキスプレスを買収した。サフラはアルゼンチン出身のいかがわしい銀行家デヴィッド・グラヴィエに融資を行っており、またアメリカン・エキスプレスが投資銀行のシェアソン・リーマンを買収する際には、ジョン・サムエルズを自分の手先に使っている。サフラをもともと支援していたのは、イスラエル・ディスカウント銀行のオーナー、レカンティ一族である。サフラ、ブロンフマン、アイゼンバーグ、クラッニック、キッシンジャーは同じ組織に属する仲間である。
 
 
■ マルコス政権転覆の真相

このように見てくると、中南米やアジアで情報活動を展開するアイゼンバーグが、1977年当時のイスラエル外相モシェ・ダヤンの訪中などといったイスラエルのための特別な工作にどういうわけで携わってきたかが理解できる。アイゼンバーグが所有するジェット機で、ダヤンはネパール、ビルマ、タイへと飛んだ。その表向きの目的は、イスラエルとこれらの国との関係改善を図るということだった。

が、それは共産中国政府を貿易、技術面で支援するというアイゼンバーグの真の目的を隠すためのものにすぎなかった。1979年までに彼は中国政府の最高幹部との関係を取り付けるのに成功し、その結果、中国で15件の大がかりなプロジェクトを成約することができた。

こうしたコネクションによって、アイゼンバーグは北京飯店に事務所を構えるに至った。彼は同ホテルの最上階の3フロアーを占有し、そこでビジネスを展開している。また彼はもう一人のアメリカ人実業家、アーマンド・ハマーとの間でいくつかの合弁事業をも行っている。

ハマーは、彼らの人脈の中でも重要な役割を果たしており、一貫してクレムリンとの関係を保ってきている。二人の合弁事業には、4億6,500万ドルに上る中国の石炭開発事業も含まれる。しかし今日に至るまで、このプロジェクトはいまだ実行に移されていない。

その一方で、アイゼンバーグは銃などの小火器類とハイテク武器の開発製造につき、共産中国政府と合弁契約を結んでいる。この事業を実行するために、彼は日本の商社を真似てアジア・ハウスと称する自分の商社を1979年に設立した。この事業を指揮する拠点は、テルアヴィブ郊外のサヴィオンに置かれ、アジア・ハウスのニューヨーク支店は、39番街東4番にあるアイゼンバーグ所有のビルの中に置かれている。東京、チューリッヒ、ロンドン、マニラにある賛沢なアパートや建物、そして自宅を彼は連絡事務所に使っている。

北京飯店にある住まいを拠点に、アイゼンバーグは中国人と組んで中距離ミサイル技術をぺルシャ湾岸のアラブ諸国に売っている。イスラエルは共産中国が持っている対アラブコネクションを利用することができれば、これらアラブの国々を監視できるばかりでなく、必要とあらば鍵となる技術を送り込むことさえ可能となる。そして、皮肉な事実であるが、これによってイスラエルにはこれらアラブの国々にどう対処していけぱ良いかが分かることになり、西側にとってみればイスラエルはどうしても必要な存在になってくる。

「どうしても必要な存在」であること、このことはアイゼンバーグの組織がCIAおよびフィリピンの債務の引受人であるアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)と一緒になって、1986年2月にマルコス政府の転覆を企てたフィリピンにおいても見られる。

いわゆる民主主義の旗の下、国務省・CIA・イスラエルからなるグループが、政権内部の人間を使ってマルコスの引きずり下ろしを目論んだ。フィリピン国内の隅々にまで浸透した腐敗は誰の目にも明らかであった。だがフィリピンは実は民主主義を打ち立てるためではなく、貸し付けた資金の回収をより容易に行うためにこのグループが体制の変革を企てようとした最初の国にすぎなかったのである。

アメリカが立てたコラソン・アキノ大統領は、マルコスに比べて操りやすい人物である。AIG社は今もフィリピンの債務保証人だが、この会社の経営者はモーリス・グリーンバーグという。元CIA次長のボビー・レイ・インマンによると、グリーンバーグは当時CIA長官だったウィリアム・ケーシーと殊のほか親しい間柄だった。ケーシーはニューヨークとロンドンの金融勢力のお気に入りだが、これら金融グループがフィリピンに資金を貸付けていたことが、マルコスの追い落しにつながっている。

フィリピンにも拠点を持っていたアイゼンバーグとグリーンバーグは、マルコス打倒に必要な資金を提供した。この打倒計画は比較的容易なものだった。というのも、マルコスの友人たちは私兵を抱えており、その私兵を訓練したのがイスラエル人だったことから、もしアキノによるクーデターに抵抗する者があれば、イスラエル人がアキノ女史の側に寝返って、彼らの知り得た秘密情報や手の内を明かしてしまうということも有り得たからである。
 
 
■ イラン・コン卜ラ事件の黒幕

以前、アイゼンバーグとグリーンバーグが組んで極東最強の企業、C・V・スター・コーポレーションの乗っ取りを図った。彼らが持っている銀行とのコネクション、とりわけエドムンド・サフラが仕切るジャンク・ボンドを使った工作を利用することによって、アイゼンバーグとグリーンバーグ連合は強引に事を運び、C・V・スターを乗取ってしまった。同会社はこの地域における旧来からのアメリカの利権の橋頭堡ともいうべき存在だった。

またレーガン政権のイラン・コントラ工作にイスラエルを絡ませたのも、アイゼンバーグの事実上のコネクションによるものであった。アイゼンバーグのビジネス上のパートナーであるイスラエル・エアクラフ卜・インダストリースの創始者アル・シュイマーと、シャー時代にイラン国内におけるモサドの活動の指揮を取っていたジェイコブ・ニミロッドの両名は、イランのムヅラー(イスラム教の律法学者)たちとのコネクションをオリヴァー・ノース中佐、リチャード・セコード将軍、並びに元CIA幹部のセオドア・シャクリーに提供した。
 

 
アイゼンハーグはイラン・コントラ事件で中心的役割を果たした黒幕の一人であったが、それが公にされることは決してなかった。

金融、経済面におけるアメリカの力の後退につれ、この勢力はアメリカに獲物を求めて入り込み、そこに自分たちの牙城を築くことに成功した。そして彼らが、いわゆる増大する日本の脅威に挑戦することは比較的容易になったのである。
 

目 次

 
 

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