『ユダヤの告白』

最終章:
アメリカ骨抜き作戦

 
 
■ イスラエル独立の立役者

ベンジャミン・エプスタインと「異端審問所」のその他のメンバーが、第二次世界大戦終結時にADLの大がかりな機構改革に取り掛かったのは、単にユダヤ犯罪シンジケートに対するADLの貢献度を高めるためだけのことではなかった。この頃、ADLとアメリカのユダヤ社会は、ハガナやイルグンといったパレスチナのシオニスト地下組織を大々的に支援し始めた。当時、これら地下組織は英国からの独立とユダヤ人の祖国再建を勝ち取るべく戦っていた。支援活動は、少しは名の知られていたソンネボーン・インスティテュートなる組織の指揮の下で、密かに行われた。この組織の名称は、パレスチナで戦うユダヤ人を助けるため裕福なユダヤ人実業家を結集させたボルチモアの一ユダヤ人実業家の名に由来する。

当然のことながら、この支援活動にはユダヤ犯罪シンジケートも大きな役割を果たした。シンジケートは、アメリカ、カナダ、メキシコ全域の主たる港湾全てにおける支援物資の密輸作戦に手を貸した。すでにADLと緊密な関係にあった大物たち、例えばランスキー、ダリッツ、パープル・ギャング団のメンバーから石油王になったマックス・フィッシャーといった人物たちも、ソンネボーン・インスティテュートの活動で大いに貢献した。

こういったギャングの他にも、第二次世界大戦中にアメリカの諜報活動に従事した主だった人物が数多く支援活動に加わった。その中には、以前戦略事務局(OSS)の一員だったナヒューム・バーンスタインもいた。彼はニューヨーク州北部に秘密の訓練学校を創り、ハガナの地下戦闘員はそこで暗殺、爆破、サボタージュなどの技術訓練を受けた。後に、バーンスタインとケネス・ビアルキンは、エルサレム財団と呼ばれたローマ・カトリックの「マルタの騎士」に属するユダヤ人エリート集団の先頭に立った。

第二次世界大戦中に米軍の中で最高の地位を極めたユダヤ人軍人の一人であり、かつADLとも長期にわたって親密な関係にあったジュリアス・クライン将軍は、米軍が保有する余剰武器を大量にパレスチナのユダヤ人地下組織へ違法に横流しした。クラインは自分の配下の者の中で、後のブナイ・ブリス会長でADLの頭目になったフィリップ・クラツニックと、ADL中西部地域担当のアボット・ローゼンの二人に、この時期以降期待を寄せるようになった。
 
 
■ アメリカに潜入するモサド

イスラエルの独立が達成されるや、ユダヤ人ギャングや軍人、それに元諜報部員という組合わせからなるこの連中が、今後はイスラエルの情報機関モサドの設立に向けて中心的な働きをすることになった。独立後の最初の一年間、誕生して間もないモサドに訓練や助言を与えるために、クライン将軍は頻繁にイスラエルを訪れた。その際彼はしばしばマックス・フィッシャーを同行した。
 

 
1948年のイスラエル独立時点でADLの再編を完了し組織の面倒を見ていたのは、ベン・エプスタインと彼の仲間だった。新たに強化されたADLは、米国内でのイスラエル情報活動の実質的拠点としての役割を果たした。

ADLが外国が行う米国内でのスパイ活動に利用されたりするのは別に目新しいことではない。南北戦争以前において、ADLの母体ブナイ・ブリスは、イギリスがアメリカ合州国に仕掛けた背信的な情報工作になくてはならない存在として、諜報活動、サボタージュ工作、テロ活動に係わっていた。ブナイ・ブリスは少なくとも一回はアブラハム・リンカーン暗殺計画に関係した。この陰謀は、合州国憲法に対する全面的反逆を引き起こそうとするものだった。

1985年にジョンサン・ジェイ・ポラードがスパイ行為を働いたかどで逮捕されるまで、イスラエルの対米諜報活動にADLが関与した極めて忌まわしい事件というのは無かったと言われている。しかし1960年代半ばには、ADLとブナイ・ブリスはすでに汚いスパイ工作に公然と関与していた。

1960年代に諜報活動に関係していた大物工作員の中には、ADLやモサドの人間も何人かいたようで、後に「ポラード事件」との絡みで彼らの名前が人々の目を引いた。その中には元イスラエル政府職員のウリ・ラアナン、ADLとブナイ・ブリスの主席法律顧問であるアーノルド・フォルスター、ブナイ・ブリス会長でADL名誉副会長のフィリップ・クラツニック、ADL専務理事のベン・エプスタインといった人たちの名があった。

1967年初頭に、1960年代のスパイ工作の詳細は白日の下に曝されることになった。その年になって、ブナイ・ブリスの元最高幹部が、ブナイ・ブリスの本部に創られた海外スパイ工作部隊への参加を拒否したという理由で解雇されたとして、ワシントンで一連の民事訴訟を起こしたからである。

訴訟を起こした幹部、ソール・ジョフティーズは、ブナイ・ブリスの海外活動担当理事として20年間も事に当たってきた。コロンビア特別区連邦地区裁判所に「ジョフティーズ対ラビ・ジェイ・カウフマン事件」(CA3271-67コロンビア特別区)という見出しで保存されている記録によると、1960年初め、ブナイ・ブリスとADLはアメリカ国内でモサドが広範囲な諜報活動を行えるようモサドに隠れ蓑を提供したという。

ブナイ・ブリスが隠れ蓑になって創設されたこの特殊部隊の表向きの目的は、イスラエル国家の命運を左右するような情報を収集するために、ソ連や東欧、それにアラブ地域への旅行から戻ったアメリカのユダヤ人から報告聴取することを、モサドの工作員に許すというものだった。

同部隊の設置の目的は、イスラエルの秘密工作員がアメリカの情報機関に潜入できるようにするためだった。
 
 
■ スパイ工作の最適拠点

この工作によって、モサドはアメリカの外交政策をイスラエルに有利な方向へ誘導するために、合州国政府に特定の傾向を有する情報を流し込むことができるようになった。

このことからアメリカとは緊密な同盟関係にありながら、イスラエルとは敵対関係にある国が往々にして犠牲になった。そしてそのひとつの帰結として、ソ連が従来からアメリカとは政治的にも軍事的にも同盟関係にあったアラブ諸国のいくつかと関係を樹立することができた。つまりブナイ・ブリスとADLを通じて行われたイスラエルの諜報活動がもたらした最大のものは、ソ連がその外交・軍事政策目標達成に向かって大きく前進したことだった。

ジョフティーズはその訴えの中でブナイ・ブリスとの争点を次のようにまとめている。

「クラツニックの指導の下、そしてラビ・カウフマンの承認の下で、ブナイ・ブリスは、慈善事業や宗教、教育活動とは別の事柄に手を出す国際的組織になってしまった。イスラエル政府の命令によって、国際政治に係わることの方が多くなった。」

ジョフティーズは、1960年にブナイ・ブリスの本部内にモサドの秘密部隊が設置されたことを事のほか糾弾した。その諜報工作に当たった中心的諜報部員は、ニューヨーク、リヴァデールの有名なラビの未亡人だった。彼女の名はエイヴィス・シュルマンという。ブナイ・ブリスの特別計画に参加する以前、シュルマン夫人はイスラエルのモサドの工作員として採用されていた。彼女をコントロールしていた諜報部員はニューヨークにあるイスラエル領事館の職員、ウリ・ラアナンだった。当時、彼は情報部長をしていた。また当時のイスラエル総領事、エリーヴもこのスパイ作戦に関与していた。

1960年の夏、シュルマン夫人はブナイ・ブリスの「職員」の形でその任務についた。彼女は、ラアナンを通じてあらゆる事柄をモサドに報告することになっていた。彼女に支払われる給料や経費は、イスラエル政府持ちで、ユダヤ機関を通じてブナイ・ブリスに設けられた基金から支払われる形が取られた。その機関とは、半官のイスラエル政府関係部局で、矛盾したことにイスラエル国外では慈善のための組織と見なされているものだった。

ジョフティーズのブナイ・ブリスに対する一連の訴訟の結果、何千ページにも及ぶブナイ・ブリスやADLの公式書類、さらにイスラエル政府が出した公文書が裁判記録に残されることになった。モサドの秘密スパイ部隊設置に関して、エイヴィス・シュルマンがブナイ・ブリス関係者宛に出した一通の書簡の中で、モサドの諜報工作の本質が率直に次のように書かれている。

“ユダヤ機関というのは、その中でもブナイ・ブリスは特にそうだが、「スパイ工作の拠点」として極めて有用である。”…と。

彼女はブナイ・ブリスが、仕事上の肩書き、個室、専用のレター用紙、電話等々を提供することを要望しているし、ラアナンもそれを要求している。さらに彼女は自分の諜報活動を隠すために、ブナイ・ブリス内に小委員会を設けることも要望している。その小委員会が彼女をその秘書に任命することで、彼女が目立たず、重要な活動ができることを助けてくれるよう依頼している。
 
 
■ ブナイ・ブリスをも食い荒らすモサド

ブナイ・ブリス国連局のヘッドで、元ADLワシントン事務所長だったウィリアム・コレイ博士が、フィリップ・クラツニック宛に出した1960年9月1日付のブナイ・ブリスの公式書類は、コレイ、シュルマン、それにイスラエル情報部訴訟担当のウリ・ラアナンの間の話合いの結論の詳細に触れている。

“昨日、私はエイヴィス・シュルマン(彼女は休暇から戻ったばかりだった)とウリ・ラアナンに会った。エイヴィスが考えていた工作方法の一部がすでに具体化されており、彼女のその考え方は、我々が会う前にすでにウリに報告されていた。

彼女の考えを具体化する場合にある種の問題があった。中でも…すでに存在する事務所の中にその事務所、あるいはスペースを取るやり方の方が望ましいということがあった。彼女は郵便物を受け取ることができ、電話ができ、来訪者を出迎えることができるような自分の部屋が必要だという。

…また、然るべき職についており、ずっとそれをやっているかのように見せるために、何らかの自分の身分を示すもの、つまり肩書が必要だとも言う。彼女をブナイ・ブリス国際評議会内の何かの委員会の幹事ということにでもしておこうか。

この最後の点に関しては、一つ私にははっきりしない問題がある。彼女は国際評議会のために働くということにするのがあなたの意向だったのですか。(彼女は私の下で働くというふうに私は理解していました。彼女の対外的な肩書をどのようにするか、それに関するあなたの考え方を、私の方は正確には知らされておりませんでした)”

こうした数多くの質問に対し、シュルマンは自分自身で同じく1960年のコレイ宛のメモの中で次のように答えている。

“A.職業1. ソ連を訪ねた米国人とアメリカを訪ねたソ連人に関する調べられる限りの昔の情報を収集すること。a. この情報を関係部署に流すこと。”

彼女のメモは、さらに次のような必要性を説いている。

“ユダヤ機関や適当な個人、それに旅行代理店を使った全国規模のネットワークを作って、ソ連を訪問したユダヤ人旅行者からの聴取りを徹底させること。…ブナイ・ブリスをはじめとするユダヤ機関は、とりわけ有益である。大規模な組織網があり、国中に訓練され経験を積んだ人材が配置されているから。”

シュルマンは、さらにモサドのスパイ計画を進めるために、「いかなる場合でも必要な人材を探し出し、選抜し、配置させるために活動を中央に集中する必要があるとの声が寄せられている」と述べている。彼女の要請は次の通りである。

“1. 任務の遂行に向けて活動を開始するには、その活動の基礎となるしかるべきものが私に与えられる必要がどうしてもある。ひとつは、名前と肩書。ブナイ・ブリス国際問題事務局傘下の小委員会。これは目的にふさわしい工作を進める上で理想的かつ最善のものとして考え出された名称である。この小委員会の長はクラツニック、そして幹事が私、ということになる。こうしておけば、比較的目立たずかつ重要な活動ができるというわけである。”
 
 
■ イスラエル政府のみへの通報

当初から、ラアナンをはじめイスラエル政府を代表する人々は、自分たちで特殊部隊を動かし、自分たちの工作員が集めた情報は、いかなることがあってもブナイ・ブリスの関係者には与えないことを、はっきりと明言していた。この点は、1960年11月2日付のクラツニック宛のコレイの覚書の中で強調されている。

“先週の金曜日、私は、我々の友(ラアナンのこと)とモシュ・デクター、それにエイヴィスに会った。我々の友は、エイヴィスに与える資金について知りたがった。私は、この問題は11月末に開かれる国際評議会で議論されるべきものだと答えておいた。今のところは準備期間であり、私たちとしては、この工作がどうすれば成功するかを知りたいわけだし、かつまた成功することを望んでいるわけであると私は言った。

彼らも、成功を心から望んでいるが、ブナイ・ブリスとの関係でこの計画が困難に直面する可能性があるのではないかということを口にしていた。もしそのようなことになれば、それに代わる手っ取り早いやり方として、この工作を進めるためのユダヤ人からなる独立の小委員会を創るべきだと彼らは語っていた。”

彼女の肩書については、私が「連絡担当」ではどうかと提案したのに対して、彼らはこれに反対し、もっと威厳のある然るべき地位を示すもの、例えば「顧問」ではどうかと主張した。彼らはもう一度よく検討して、後で代案を出すと語った。また、彼らは彼女の名前を刷り込んだ専用のレター用紙を用意することを再度指摘した。”

“彼らはそれから、彼女に対する指示は自分たちだけが出し、彼女の活動はブナイ・ブリスとは無関係に進められ、その報告は彼らだけに行われること、ただ例外として週に一度ほどの割合で私に活動状況の報告を行うようにすること、を示唆して私をびっくりさせた(彼らと話し合っていて初めてのことだったが)。

私はそれに反対して、彼女は組織の上で私たちの管轄下に入ると従来から考えていたし、ブナイ・ブリスに面倒が掛かるような活動があれば、我々はそれに歯止めをかけられる立場にあり、事実上、彼女は我々の承認を受ける状況にあると主張した。”

“事の性質上、そのようなことは不可能だと彼らは言った。彼女は彼らのために働いているのだし、彼ら以外から指示が出ることなどあり得ないという。また、工作の内容はごく僅かの人しか知らないようにしたいとも語った。”
 
 
■ アメリカに巣食う吸血鬼

このコレイのクラツニック宛文書が出る以前にも、ソール・ジョフティーズはブナイ・ブリスの会長に対し、イスラエルが申し入れてきている秘密工作は違法だということを何度も警告していた。ジョフティーズは外国の非合法なスパイ行為にブナイ・ブリスが巻き込まれることのないようクラツニックに申し入れてきたが、その最後の試みである1960年9月16日付の手紙の中で次のように書いている。

“ただ一つのことをお願いしたい。私の言うことを拒否する前に、合州国法第22第611 – 621条(1938年修正)および合州国法第18第951条(1948年9月1日修正)に目を通してもらいたい。”…と。

ここで挙げられている規定は、米国内で活動する外国機関の登録を定めたものである。

モサドの関係者が進めているやり方に対するジョフティーズの警告などにも係わらず、クラツニックはモサドの申し入れ通りこの工作を進めた。これまでにこの計画が終了したということは耳にしていない。

ブナイ・ブリスやADL、協力関係にあった在米のユダヤ人やシオニスト機関に支えられたモサドのスパイ工作は、シュルマンの秘密工作だけに留まるものではなかった。ADLの米国内における活動の責任者であるベン・エプスタイン自身が、ワシントンにおけるアラブ政府職員に関する情報をイスラエル政府に流すことを目的としたADLの諜報工作に関係していた。その情報は、米国と穏健アラブ諸国との関係を損なわせる目的でイスラエルがしばしば利用した。穏健アラブ諸国は、中東でのソ連の拡張主義に対抗すべくアメリカと同盟関係を結んでいたが、イスラエルとは敵対関係にあったからである。

皮肉なことにソール・ジョフティーズ宛の1961年7月7日付の覚書の中で、エプスタインはこの計画に触れている。この覚書の一部を引用する。

“ご承知の通り、ADLは長年にわたってアラブの動きと宣伝工作を調査する極めて重要な秘密情報活動に携わってきた。我々の利益からみて、反ユダヤおよび反イスラエルと言える宣伝工作に、アラブ人たちは何百万ドルも注ぎ込んでいるが、このプロパガンダ計画の拠点は主に国連、ニューヨーク、ワシントン、カイロである。

その影響は世界的なもので、世界中の大部分の国において反ユダヤ、反イスラエルの動きを促している。我々の方も1948年以来、アラブ領事館、アラブの国連代表、アラブ情報センター、アラブ連盟事務所、アラブ学生機構の活動に関する情報収集活動を世界中で続けてきている。”

“これらの活動に関する完全な資料を入手するには、大使館を根城にして政治努力やロビー活動、プロパガンダ活動に従事しているアラブの外交官たちの動きも追跡していかなければならない。

この大使館の活動は、アラブ連盟とは別のものだし、アラブが有する中東のアメリカの友といったような組織との関係とも違うし、専門家を使った広報活動とも全く別のものである。”

“我々が収集した情報は、我々自身の工作遂行上必要不可欠であるばかりか、米国務省とイスラエル政府にとっても極めて価値のあるものである。情報源が我々であるということを先方に徹底させた上で、両国には全ての資料を提供してきている。”

“こうした活動は、その性格からして、反ユダヤ活動や、反イスラエルの計画および政策を暴く元になる大量の文書になった情報を我々にもたらしてきた。我々の情報によりアラブの計画が実行前に露見するといったことも数多くあった。”
 
 
■ 恩を仇で返す

ソール・ジョフティーズがブナイ・ブリスを相手に一連の訴訟を提起している過程で、ベン・エプスタインは宣誓して証言することを求められた。宣誓の上で、1961年7月7日付の書簡の意味を尋ねられたが、エプスタインはその質問に答えることを何度も拒んだ。それは全米犯罪シンジケートの活動にメスを入れたケファウファー委員会で証言に立ったメイヤー・ランスキーを思い出させるものだった。

実際、過去に一度、外国の政府の手先としてアメリカのユダヤ・エージェンシーが行っていたことを、アメリカの上院が調査したことがあった。1963年5月23日、大きな権限を持っていた上院外交委員会の委員長だったJ・ウィリアム・フルブライト上院議員が、米国内でのイスラエルのスパイ工作の真相を究明するために丸一日に及ぶ公聴会を開いた。

上院のフルブライト委員会では、特にイスラエルのスパイが使っていた三つの隠れ蓑について調査が行われ真相が暴かれた。

ひとつはアメリカ・ユダヤ人会議内に設けられたユダヤ少数民族調査(マイノリティーズ・リサーチ)プロジェクトだった。ブナイ・ブリス内のスパイ部隊同様、アメリカ・ユダヤ人会議内の工作部隊もニューヨークのイスラエル領事館によって裏で操られていた。実際、ユダヤ少数民族調査プロジェクトの責任者はモシュ・デクターで、モサドの工作員スパイ、エイヴィス・シュルマンと直接連絡をとりながら活動をしていた。その資金はイスラエル政府から出ており、その計画のために資金を実際出していたのが、誰あろうかのウリ・ラアナンだった。

1961年7月7日付(ADLの反アラブ・スパイ網に関しベン・エプスタインがソール・ジョフティーズに宛てて書簡を出したまさしくその日)のユダヤ・エージェンシー(イスラエル政府の半公的機関)内部的覚書のひとつによると、「デクター計画」に要する資金はイスラエル財務省から直接出ていたという。その覚書は、当時ユダヤ・エージェンシーの理事の地位にあったイシドール・ハムリンが記したもので、次のように書かれている。

ロシア調査プロジェクトに関する6月16日付信書を先にお送り申し上げましたが、さらに領事館からイスラエル財務省に発送致しました5,500ドルの送金を依頼する内容の7月6日付の信書のコピーをお送り致します。以下の件、よろしく手配されたくお願い申し上げます。

  1. 財務省に対し、5,500ドルは合同基金に充当すべき旨連絡すること。
     
  2. 領事館の手で我々に転送された5,500ドルのうち、4,375ドルは、ロシア調査プロジェクトに対する我々の負担分としてアメリカ・ユダヤ人会議への毎月の送金に充当すること…

上院での審問において、ハムリンは合同基金の管理はニューヨークのイスラエル領事館における情報部の責任者が行っていることを告白した。1963年当時の情報部責任者はアルノンだった。アルノンはウリ・ラアナンとちょうど交代してしまっていた。

さらに上院の調査で、ユダヤ・エージェンシーのロシア調査プロジェクトの責任者は、こともあろうにフィリップ・クラツニックであることが明らかにされた。当時、彼はブナイ・ブリスの会長でもあり、ブナイ・ブリス本部内におけるモサドの出先部隊の後ろ盾でもあった。
 
 
■ 「私がモサドへの情報ソース」

ジョフティーズの裁判の審議過程で手に入った文書によると、元ブナイ・ブリス会長のクラツニックは1966年に至るまで依然モサドのスパイ活動に深く係わっていた。その年の10月にロンドンで開かれたブナイ・ブリスの国際評議会の席上、「ソ連ユダヤ人計画」を遂行するために引続き10万ドルの特別資金を出すというクラツニックの提案が満場一致で採択された。

ブナイ・ブリスの国際評議会の当時の議長だったモーリス・ワインスタインは、宣誓をした上で、10万ドルの資金が拠出されたことは認めたものの、ジョフティーズ側の弁護士から召喚状が出されていたブナイ・ブリスの帳簿上の資金源については、何一つ説明することができなかった。資金源を説明することができなかった理由は、その資金がイスラエルの財務省から裏金の形でブナイ・ブリスに渡された機密費であったからだ。これは米国法に甚だしく背くことであった。

イスラエルのための諜報活動というのは、ADLやブナイ・ブリスの活動の中でも極めて重要なものだったことは、やはり長期にわたってADLに勤めていたアーノルド・フォルスターが最近出版した自伝の中でも強調されている。

フォルスターはその自伝『スクェア・ワン(はじめに)』の中で、ナチ戦犯の「アドルフ・アイヒマン誘拐事件」が起こった頃の昔から、自分はモサド幹部の「ダーティ」ことラフィ・アイタンと親しい関係にあった事実を誇らし気に述べている。この事件が起こったのは1961年。クラツニック、エプスタインをはじめとするADLの最高幹部たちが、モサドのスパイ工作を隠蔽する隠れ蓑をつくり上げていたまさしくその時期だった。その上、フォルスターは、1987年に至るまでアイタンと接触を続けていたことを認めている。1987年と言えば、ジョナサン・ジェイ・ポラードを操っていた上級スパイとして、イスラエルのテロ工作の元責任者の名が公にされてから二年後である。

詳細に証拠を追っていくと、フォルスターとアイタンの二人は、知り合って後しばらくしてからポラード・スパイ工作を支援するADLの役割の中で係わり合いを持つようになったと思われる。その時点で、フォルスターはADLの主席法律顧問になっていた。彼は実行が容易でなくかつ非合法性の極めて高い秘密工作を行うには理想的な地位にいた。

実際、フォルスターはモサドのために働くことを自慢していて、『スクェア・ワン』の中で次のように語っている。

「イスラエルが行ったその他の工作の中でも、モサド(海外工作を担当する地下組織を意味するヘブライ語の頭文字を取った名称) は信頼できる各国政府やその他の接触先や情報源に対し優位に立つことをいつも求めてきた。私は、その情報源のひとつだった。」
 
 
■ 対米工作の極致、ポラード事件

フォルスターがADLとイスラエル国防省内のアイタン率いる軍事諜報部隊「LAKAM」との間の主要な連絡係であったかどうかは別にして、ADLがポラード事件・スパイ事件に深く係わっていたことは事実である。この事件に関してはウリ・ラアナン博士もまた関係していた。

今世紀最大のスパイ事件に関してポラードが半ば公式に語った本であるウルフ・ブリッツァ著『嘘の領域』によれば、彼をイスラエルによるスパイ劇に引きずり込んだのはウリ・ラアナンだという。ラアナンが形式的にはポラードを「LAKAM」の仕事のために採用したということもあり得る。ポラードがフレッチャー外交官学校の中でも難関の防衛研究課程を卒業してまもなく、メリーランド州スートランドにある合州国海軍の諜報要員統轄局の最高機密を扱う部署に就くに当たってはラアナンが力添えを行ったのは間違いない。

ラアナン自身は1973年以来、この作戦を指揮してきた。この作戦は、国際関係の分野を学んだ優秀な学生で、外交官あるいは情報関係の仕事につく気のある者だけを選んで、より高度の訓練を行うものである。防衛研究課程の卒業者の大半は毎年CIAや軍情報部、あるいは国務省に就職する。そのような卒業生の一人で、ジョナサン・ジェイ・ポラードの同級生で彼とも親しかったのが、マイラ・ランスキーである。

ヴァージニア州の州刑事法廷で最近開かれた公判におけるランスキーの証言によると、彼女は1978年にフレッチャー・スクールを卒業した後CIAに就職し、そこで14ヶ月働いた後に、国防省でも機密を取り扱う部署であるネット・アセスメント調査分析局に移された。同局は、国防省のコンサルタントを外部から採用したり、ソ連をはじめとする敵性国の軍事力の全推定値を収集調整する業務を担当している。

ポラード事件の捜査官の中には、ランスキー自身が共犯者だったのではないかと考えている者もいる。一部の報告書によると、ランスキーとポラードは共にザ・サード・ジェネレーション(「第三世代」)と称する内輪の勉強会のメンバーだったという。この勉強会は、ワシントンの国会議事堂近くの保守派のシンク・タンクであるヘリテージ財団の中で時々開かれていた。「第三世代」なる会には、情報関係者や議会やシンク・タンクのスタッフ・メンバーが参加しており、出席者の多くは高度の国防機密に接し得る立場にあった。そしてその大半は、熱烈なイスラエル支持者だった。
 
 
■ 常に二重忠誠心を抱く人々

会合の場所が、ヘリテージ財団だったというのも面白い取り合わせである。当初ビール王だったジョセフ・クアーズの資金で運営される小規模な保守派のシンク・タンクだったヘリテージ財団は、1978年に英国情報部の文字通りの侵略によって乗取られてしまった。レーガン政権時代には、この財団は終始イギリスの自由市場を標榜するフェビアン流政策を真の保守的見解と偽ってホワイト・ハウスの中に持ち込むことを終始狙っていた。

1982年12月、マイラ・ランスキーは前途有望な公務員の地位を突然捨て、ADLの終身職員となり、ワシントンにあるADLの実情調査部の部長に就任した。彼女は国防省在籍中、ネット・アセスメント局のアンディ・マーシャル局長の下にいたが、1985年11月にポラードが逮捕されたのに続き、米政府捜査当局はマーシャルをポラードの共犯の容疑者リストの中に加えた。陰謀を共同して企てた容疑者グループは、「X-委員会」の名称で呼ばれた。

ポラード同様、マイラ・ランスキーも二、三年ラアナンの下で学んだことから深い影響を受けていた。ポラードがイスラエルのスパイの責任者として行動を開始する直前に、ランスキーがCIAや米国防省の機密を扱っていた部署からモサドと繋がっているADLに移った事実は、今なおその全貌が解明されていないポラード・スパイ事件の極めて興味深い一面である。

ラアナンとの関係を、ポラードは「フレッチャーにおける我がユダヤ体験」と表現した。

「イスラエルが国の内外で直面している真の政治問題を正しく理解できるよう、彼は私を知的に育て上げてくれた。…人間は戦闘と対話が同時にできるものであることを、彼は私に教えてくれた。また、平和とは別の意味で戦争の連続であることも教えてくれた。つまり、平和のために危険を冒さなければならないということではなく、自らの軍事的立場を改善するためには平和を巧妙に利用すべきであるということ…これは私が学んだ大いなる教訓だったように思う。…あの国家を存続させるために何が必要であるのかということを、ラアナンは政治的にも戦略的にもよりよく認識させてくれた。…これは極めて重要なことだった。ひたすら情緒的なあの国に対する私の思い入れとも言うべきものを、それがすっかり取り除いてくれた。」

要するに、ラアナンは他国(イスラエル)のために働くべく母国(アメリカ)に対しスパイ行為を働くよう、ポラードを仕向けたのである。そのことをポラードがよく知っていたかどうかは別にして、彼のスパイ行為で得をしたのは、イスラエルだけではなかった。彼が入手した膨大な量の情報は、彼を裏で操っていたイスラエルの人間を経由してソ連に流された。とりわけこの理由により、ワインバーガー国防長官は、ポラード事件によって被った被害はアメリカの国家安全保障の歴史上最大のものであったと述べた。

「ダーティー」ことラフィ・アイタンやアリエル・シャロンからなるイスラエル人のグループについてしばらく調査したことのある人なら、ポラードが盗んだ国防上の情報がLAKAMに流され、それからモスクワに提供されていたと耳にしても別に驚いたりはしないはずだ。

イスラエルがレバノンに侵攻した1982年になって初めて、当時のシャロン国防相はアメリカがもはやユダヤ人国家の真の同盟者ではないと言い切った。そして今度アラブ隣国の一つにイスラエルが先制攻撃を仕掛けることを決定した場合、アメリカは敵国を支援する可能性もあると語った。そしてイスラエルの情報によると、1983年初めにシャロンは、ソ連赤軍の情報組織GRUの最高幹部と密かに会うようになったという。そしてその会談の何回かは、世界のスパイの十字路と呼ばれる便利な中立地点にある地中海のキプロス島で行われた。

ソ連との間でシャロンがどういう合意に達したか、その詳細は不明であるが、彼らが何度か会合を重ねた後に起こった出来事を追っていくと何らかの結論を引き出すことができる。

まず第一に、メナヘム・ベギン内閣の国防相に就任してからのシャロンは、長年の盟友「ダーティー」ラフィ・アイタンを政府内の枢要なポストに就けるために尽力した。その結果、欧州地区のモサド工作責任者だったアイタンは、まず首相直属対テロ・テロ担当室の室長に任命された。同室は、イスラエル政府の承認した暗殺やテロ工作の隠蔽を行う部署である。そして彼はイスラエル国防省内のハイテク・スパイ部隊、LAKAMの責任者にも就任した。この部隊は1956年のスエズ動乱直前に創設され、その後は長年にわたって、イスラエルの核兵器開発のために、科学分野の機密、装置、人材など必要なもの全てを入手することを主たる任務としていた。

シャロンとアイタンの指揮の下で、LAKAMはアメリカの軍事力および戦争計画を探るべく諜報活動を開始した。世界のマスコミはイスラエルが対米諜報工作を行ったのはジョナサン・ジェイ・ポラードが初めてのことだとしきりに言い立てているが、軍情報関係者やCIAの専門家の一部は、その他にも大勢のイスラエル工作員が活動していたと考えている。彼らの一部は今も任務についており、アメリカの最高機密をLAKAMにどんどん送り込んでいる。その情報をアイタンはまた大量にモスクワに流していたわけである。
 
 
■ 白アリが食い荒らしていた

キャスター・ワインバーガー国防長官は、ポラードの有罪申し立て後、これに対し判決を言い渡す立場にある連邦判事宛に提出した48頁からなる機密扱いの口述書の中で、ポラードは働く相手を騙されたままで諜報工作網に組み込まれてしまい、結局のところロシア人のために働く羽目になってしまったと述べている。

ワインバーガーのこの結論は、国防相とCIAが被害の程度を苦労して調べ上げた結果を受けて得られたものだった。この調査の中で、米軍の機密情報が大量にモスクワの手に入っていたことを示す証拠が数多く見つかった。その中には、アメリカの国防上取り返しのつかない損害を蒙ったものもあった。それにそのような情報がロシア人の手に渡るとすれば、それはLAKAMの仕業以外には考えられない証拠も数多く見つかった。

1986年初めには、国防長官付主席法律顧問によって、ポラードおよびLAKAMのスパイ活動に協力したと思われる国防省とCIAの十指に余る有力幹部の名が記されたリストが作成された。そのリストの中に名を連ねているとされる人物の中に、マイラ・ランスキーが勤めていたネット・アセスメント局の局長、アンディ・マーシャルがいた。それに国防省の民間人最高顧問リチャード・パールの名もあった。彼はワシントン州選出の民主党上院議員で熱烈なシオニストのヘンリー・ジャクソンのスタッフであった際、イスラエルのためにスパイ行為を働いたとして逮捕されたことがある。

さらに、アメリカの長期軍事戦略の立て直しを担当していたレーガン政権時代のブルー・リボン・パネルの議長を務めたアルバート・ウォールシュタッター博士の名もあった。法律執行連邦機関としては最古の歴史を有する機関の一つ、米国関税庁の幹部の一人によれば、ポラードが逮捕されて間もなく、政府はイスラエルが中堅どころの米国政府職員を文字通り何千人も自分たちの利益のために働かせていたとの結論に達したという。

米国は、防諜活動で大きな失敗をしていた。ソ連は、巧妙な「トロイの木馬」のやり方を以前から進めていた。最も堕落し、最も熱心なイスラエル人を利用することで、ソ連は冷戦の最大の敵国に浸透して諜報活動をすることに成功した。
 
 
■ ポラード事件をも仕組んだADL

最も堕落してかつ熱心な人たちが、例外なくADLと密接な関係があったというのは不思議でも何でもない。実際、ADLはポラード事件のほとんどすべての局面で顔を出している。ウリ・ラアナンは、長年にわたってADLとイスラエル秘密情報組織の間の連絡係をしていただけでなく、ポラードをLAKAMに引きずり込むのにも貢献した。ポラードの最初の黒幕で表向きポラードを徴募したとされるイスラエル空軍のアヴィエム・シェラ大佐は、ADLとは親しい関係にあったようである。

複数の情報源によると、シェラの妻のイェフディット(別名「ルス」)は以前ADLのお抱え弁護士としてADL本部の民権局法務部で働いていた。もしこれが本当なら、シェラ夫人は「ダーティー」ことラフィ・アイタンの長年の親友でかつ「情報源」でもあったアーノルド・フォルスターの直属の部下として働いていたことになる。

シェラとADLの繋がりがさらに重要な意味を持つのは、ジョナサン・ポラードが逮捕された直後、ADL全米委員会会長のケネス・ビアルキンが政府高官と話し合うために急遽イスラエルに飛んだことだ。テル・アヴィブを発つ直前だというのに、ビアルキンは個人的にシェラ大佐のために弁護士を手配した。その弁護士はレオナード・ガーメントといい、当時の彼の顧客の中にはヘンリー・キッシンジャーエドウィン・ミース司法長官の名があった。

さらにイスラエルで本拠を構えて仕事をしていたアメリカ人弁護士で、ポラードに日々の給料を与え、隠れ家や移動の費用などの面倒も見ていたハワード・カッツは、スターリング・ナショナル銀行の重役で、ポラード逮捕当時の米国司法副長官でもあったADLのアーノルド・バーンズの仕事上におけるパートナーであった。

つまりポラードに絡むスパイ網が関係するところ、至る所にADLが顔を出すのである。
 
 

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