風知空知

英語版『資本論』序文

1887 Karl Marx English Edition “Capital”
カール・マルクス 英語版『資本論』 1887年
Translated by Samuel Moore and Edward Aveling,Edited by Friedrich Engels
サミエル・ムーア=エドワード・アヴェリング:訳 / フリードリヒ・エンゲルス監修

1886 Preface To The English Edition
英語版への序文「和訳] 1886年

 

 

1

 ”Das Kapital” の英語訳の出版については「謝罪」の必要は無い。そうではなくて、逆に「説明」が求められているであろう。なぜ英訳が今日までも遅れたのか。イギリスやアメリカの定期出版紙や時事文献で、ここ数年間この本に提起されている理論は絶えず言及されており、攻撃されたり … 擁護されたり … 翻訳されたり … 誤翻訳されたりして来たのだから。

 

 

2

 1883年 (3月:訳者注) 著者 (マルクス) が亡くなったすぐ後に、この本の英語版が真に求められていることが明確となった。マルクスとこの本の現在の著者 (エンゲルス) の長年の友である サミエル ムーア氏が、翻訳の労に合意してくれた (1883年 6月:訳者注) 。彼ほどこの本に精通している人は多分、他にはいないだろう。「マルクスの遺言書」の執行人にとっては、この出版が懸案となっていたのだった。私が ムーア氏の「原稿」と「原本」を照合し、私が「助言」した方がいいと思ったら、その「別の表現」等を指摘することになった。

 しばらくして ムーア氏の仕事が忙しく、翻訳が我われすべてが望んでいたようには早くは終わらないことがわかった時、エイブリング博士の「助力」申し出があり、我われは喜んで受け入れることにした。また同時に エイブリング夫人 (マルクスの最も年下の娘さん) の「引用文」のチェックと、英国の著述者からの数多くの「引用句」、「青書 (Blue Books:訳者挿入) 」、マルクスが「ドイツ語」に翻訳したものの「元の英語への戻し作業」の申し出もあり、もちろん喜んでお願いした。この エイブリング夫人の作業は全般にわたって行われた。ただ、二、三の避けられない例外はあった。

 

 

3

 この本の次の部分は、エイブリング博士によって翻訳された。

(1) 第 10 章 (労働日) と第 11 章 (余剰価値の量と比)
(2) 6篇 (労働賃金、第 19 章から第 22 章を含む)
(3) 第 24 章の第 4 節 (状況は … ) から最後まで。第 24 章の後半から、第 25 章、そして 第 8 篇のすべて (第 26 章~ 第 33 章)
(4) 二つの著者の序文

 この本の以上の残りの部分すべては ムーア氏による。そして、このようにそれぞれの翻訳者は、かれの作業の範囲に関してのみ責任がある。だが私は、その全てに共同の責任を持つ。

 

 

4

 ドイツ語版の第三版を我われの基礎としている。この第三版は 1883年に、私が著者 (マルクス) が残した「ノート」の助けを借りて用意したものである。1873年に出版したフランス語版を見て、第二版の「ある語句」を明確な語句に置き換えるよう指示していた (本文注:Le Capital par Karl Marx Tranduction de M.J.Roy entireement revisee I’auteur. Paris. Lachatre. M.J. ロイ氏の翻訳で、全体的に著者 (マルクス) が校訂。ドイツ語第二版を基に翻訳したものだが、この訳には特に本の後段の部分に「少なからぬ変更」があり、また「追加」された所もある) 。

 であるから、第二版「本文」に影響する部分は マルクスによって書かれた変更で、「マルクスの指示書 (MS.:訳者挿入) 」の中身とほぼ同一である。この「指示書」は、10年程前に アメリカで計画された英訳のためのものであった。この計画は、我われの要望にかなう適当な翻訳者がいなかったため、放置されていた。この「指示書」は、我われの古い友人であるニュージァージー ホボーケンの F. A. ソルゲ氏から、「我われの処置に」と戻されたものである。そこにはフランス語版からの、いくつかの更なる指示があった。しかし、第三版に対する「最終指示書」よりもかなり古いので、私はこの使用の自由が、私には無いと思えた。ただ控えめに、主に「困難な部分」を乗り越えるために使用することとした。同様にフランス語版は、多くの「困難な字句」に際して「参照」された。「原本」の重要なところで、「表現上、何を犠牲にすべきか」と云う時に、著者 (マルクス) 自身が「何を犠牲にするか」迫られていた指標として。

 

 

5

 とはいえ、読者に対して取り除くことができない困難がある。ある「字句」は「実情とは違った意味」で使われている。「普通の生活」という点ばかりでなく、「今日の政治経済学上の」という点でもなのである。でもこれは、避けては通れない。様々な「新しい科学」においては、科学の「専門用語」の革新が進んでいる。特に「化学」の分野では、すべての用語が 20年ごとに急速に変化している。様々な名称の関連物を持たない、単純な有機重合物などはほとんど無い。

 政治経済学では 一般的にそのままで、「商業」「工業」の現状の用語に満足しており、また、それらの用語を使っており、だからこそそれらの用語で表される、「狭い範囲の観念」に自身を閉じ込めていると認識するのに失敗している。

 であるから、「利益」も「地代」も、労働者が雇用主 (その最初の占有者、究極の全面的所有者ではないものの) に供与しなければならない「生産物の不払い部分」の「断片」であると完全に知ってはいるものの、「古典的政治経済学」は従来の「利益」と「地代」の概念から踏み出すことは、少しも無かった。そうしたものすべてが「高潔無比なるもの」として、この「生産物の不払い部分 (マルクスが余剰生産物と呼んだもの) 」を調べることも、少しも無かった。したがって彼らは、その「起源」も …「性質」も …それに付随する「価値」の「分配を決める法律」にも、明瞭な理解に到達することはなかった。

 もう一つ、すべての工業 (industry:訳者が英文を挿入) は農業や手工業でない限り、何ら区別すること無く次の単語 …「製造業 (manufacture: 訳者が英文を挿入) 」としている。このため、二つの大きな「基本的」でもある、「経済史上の異なる時期」の違いが消されている。一つは「製造業」そのものの「手による労働を主とする時期」、もう一つは、近代の「機械による工業の時期」である。だが、ここは「自明」と云わねばならない。近代資本主義者の生産を、ただ「人間の経済史」における「一通過時」のものとして見る理論であり、現生産形式を「不朽」で「最終的」と見る習慣的論者のそれとは、違った言葉を使う必然があるからである。

 

   

6

 著者 (マルクス) の「引用の方法」について、敬意を払って触れておくことも、やはりここでは重要な点であろう。大部分のケースは通常のもので、「主文」で主張していることを支える「文献的な証拠」である。だが、多くの例は経済学の著述者からの字句で、その「主張」が最初に明解に発表されたのは、「いつ」「どこで」「誰によって」かを示すための「引用」である。彼らの「主張」が「どの様なケースでなされたものか」は重要な部分で、「主張」の内容が適切なものかどうかはともかく、「社会的生産の条件」や、当時行われていた「交換の状況」を表しているものである。これらはマルクスの見識には全く関り無く … また、別に一般的に「妥当」だというものでもない。したがってこれらの「引用」は、「科学的歴史」としての適切な「注釈」として「主文」を補足している。

 

 

7

 我われの翻訳は著作の「第一巻」のみで構成される。しかしこの「第一巻」はそれ自身で非常に充実しており、全体を成している。また、この 20年間を通して「独立した地位」を保持している。「第二巻」はドイツ語版で私が 1885年に編集したが、「第三巻」無くしては決定的に「不完全」であり、1887年末以前には発行できない。「第三巻」がドイツ語初版でもたらされたら、両方の英語版を用意すれば 十分間に合うだろうと考えた。

 

 

8

 ”Das Kapital” は、たびたび大陸において「労働者階級のバイブル」と呼ばれた。この本が到達した「結論」は、日を追うごとに多くの労働者階級の運動の「基礎的原理」となり、ドイツやスイスばかりでなくフランス=オランダ=ベルギー=アメリカ、さらにイタリアやスペインにまでも広がった。いずれの地でもこれらの「結論」が、彼らの「状態」や彼らの「要望」を最も「適切に表現」していると次々に認めている。この運動を知る者に、このことを否定する者はいないだろう。

 またイギリスにおいて、同じく今この瞬間でさえも社会主義者の運動に力強い影響を及ぼしており、その運動が「文化的」と称される人々にも、労働者階級に匹敵する程に拡がっている。しかしこれがすべてではない。「イギリスの経済的状況」の全面的な「診断」が、まさに避けようも無く「国家的な必要事」となる時代が急速に近づいている。この国の工業システムの作動は「生産」の絶え間無い「急速な拡大」無しには … したがって、「市場の拡大」無しには即刻「停止」に行き着く。

 

 

9

 自由貿易はその「財源」を枯渇してしまった。マンチェスターさえ、この … 以前の「経済的福音」を疑う。外国の工業が急速に発展し、イギリスの生産の眼前に迫る。至る所で …「保護地域」のみでなく「中立的市場」で、そして「海峡」のこちら側でも。生産力は「等比級数 (曲線グラフ) 」で増大する一方、市場の拡大は最大でも「算術級数 (直線グラフ) 」でしか進展しない。10年ごとに繰り返される「不景気」「繁栄」「過剰生産」「恐慌」のサイクルが、1825~ 1867年の繰り返しのように「同じコース」を走って来たように見える。だが、「永久的」「慢性的」な不況という、絶望の泥沼に嵌まり込むだけだろう。

 繁栄の頃を夢見ても、もう来ない。我われはたびたびその「予告的兆し」を感じたように思ったが、そのたびに空気の如く消えた。その間、毎冬あの「大きな質問」が繰り返し提起される …「失業者をどうするか」。しかし、失業者数が毎年増加するのにこの「質問」に答える者はいない。そして我われは「失業者たち」が「辛抱」を捨てて、彼ら自身の「運命」を自らの手で掴む時が来るのを 十分に予測することができる。

 その時には「ある人」の声が聞こえてくるであろう。彼の全理論は「イギリスの経済的歴史」と「現状の学問的研究」に全生涯を捧げたものであり、その研究が彼をして次のような「結論」に導いたのである。

 

少なくともヨーロッパにおいてイギリスは、この「不可避の社会革命」が「平和的・法的」な手段を以て、完全に為し遂げられるであろうただ 一つの国である。

 

…と。

 彼はもちろん次のように「付け加える」ことを、少しも忘れてはいない。

 

イギリスの支配階級がこの「平和的・法的」な革命を、「奴隷制擁護」の「反逆」も無しにその「成就」を許すとは、少しも思っていない。

 

…と。

 

Friedrich Engels
フリードリヒ・エンゲルス
1886年 11月 5日

 

[序文 終り]

 

 

WordPress.com Blog.