風知空知

カール・マルクスと自然の搾取

ジョン・ベラミー・フォスター:著
「マンスリー・レビュー」誌 (NY) 編集長
土田 修:訳

 


 長らく マルクスは「エコロジー」に対して「無理解」な思想家だと見做されてきた。だが米国の知識人 ジョン・ベラミー・フォスターは、「マルクスの世界観」が体系的に「エコロジー的」であり、その「エコロジー的」な見地が マルクスの「唯物論」に由来していると主張する。

 マルクスは「労働」を通じた「人間の自然への関与」を説明するのに、「物質代謝」という概念を用いている。それは「生態学的意味」と共に、「社会的意味」も持っていた。【日本語版編集部】


原 文




 近年、「エコロジーの問題」がその「影響力」を増していることは、プラトンから マハトマ・ガンディーに至るまで、数多の「思想家」たちの著作が「エコロジー」の視点で「再読」されているのをみると、あまりにも明らかだ。だが、あらゆる「思想家」のなかで、「最も実り豊か」で「最も論争的」な著作を残したのは、間違い無く カール・マルクスだ。

 アンソニー・ギデンズは、マルクスが「初期の著作」の中で「エコロジー」の見方を詳しく展開したことは確かだが、それ以降 マルクスは、自然に対する「プロメテウス的 (技術優先で反エコロジー的) 」な立場を採用したと主張する。*1

 同様に マイケル・レッドクリフトは、マルクスにとって「環境」はあらゆる「事象」を可能にする機能を持っていたが、「すべての価値は労働の力から生じた」と指摘する。*2

 最後に アレック・ノーヴは、マルクスが … 「生産の問題は資本主義によって解決されてしまった。それゆえ団結した生産者たち (producteurs associés) による未来社会では、“乏しい資源の利用の問題” を深刻に考える必要は無いだろう」 … と信じていたと語っている。それは「社会主義」がどのようなものであれ、「エコロジーの意識」を持つことは「無意味」であったということだ。*3

 こうした批判は「正しい」のだろうか?




 1830年代から 70年代にかけて、「栄養分」が失われることによる「土地の肥沃度の減少」は、欧州でも北米でも「資本主義社会」において、エコロジー上の「主要な関心事」だった。この問題によって引き起こされた「不安」と比肩するのは、「都市で増大する環境汚染」「 (欧州) 大陸中での森林伐採」「人口過剰」についての、「マルサス主義者」の「恐怖」だけであった。

 1820年代と 30年代に英国で … もう少し後には、「資本主義経済」が発展途上にあった欧州と北米の国々で、「土地の消耗」についての全般的な不安が「肥料」の需要を驚くほどまでに増大させた。ペルーのグアノ (海鳥の糞) を積んだ船が 1835年にリバプール港に初めて到着した。次いで 1841年に 1,700トンが、1847年には 22万トンが輸入された。

 この時代、農民は「ワーテルロー」や「アウステルリッツ」といった「ナポレオン戦争」の戦場を掘り起こし、自分の畑に撒くための「遺骨 (肥料) 」を必死で探し求めたのだった。

 ユストゥス・フォン・リービッヒ (米国に関心のあったドイツの化学者) は、米国では「穀物生産の中心地」とその「市場」が、数百キロ … あるいは数千キロ離れていると指摘していた。それゆえ「腐葉土の成分」は「元の土地」から遠く離れた土地へと運ばれ (持ち去られ) 、「土地 (農地) の肥沃度の再生」をさらに困難にしていた。




■ テムズ川の汚染


 マルクスは「エコロジーに無関心」などころか、1850年代末期と 1860年代初期の リービッヒの著作に影響を受け、「栄養素の収奪」… すなわち「再生を保証しない」という意味での「資本主義的搾取」への「体系的批判」を、「土壌」に関しても展開しなければならなかった。マルクスは「資本主義的農業」についての主要な「二つの分析」を …

 

「大規模産業」と「大規模農業」が 一体となって、「土地」と「労働者」を疲弊させている。


… という説明で「結論」づけている。この「批判」の核心は、『資本論 (経済学批判) 』第三巻「資本主義的地代の生成 ~ の終わり」の 一節で要約されている。

 

「大きな土地所有」 は、「農業人口」をさらに「減少」してゆく「最少限」まで減らし、これに応じて、大都市に密集する「工業人口」を絶えず「増大」させてゆく。

こうして「大きな土地所有」によって生み出される「諸条件」は、「生命の自然法則」によって命じられた「社会的な物質代謝の関連」の内に「回復できない裂け目」を生じさせるのであって、そのために「土地力」は「乱費」され、またこの「乱費」は「商業」を通じて、「自国の境界」を越えて遥かに遠くまで運び出されるのである。

「大工業」と、工業的に経営される「大農業」とは 一緒に「作用」する。元来この 二つのものを分け隔てているものは、「前者」はより多く「労働力」を … したがってまた「人間の自然力」を荒廃させ「破滅させる」が、「後者」はより多く「直接」に「土地の自然力」を荒廃させ「破滅させる」ということだとすれば、その後の「進展」の途上では「両者は互いに手を握り合う」のである。

なぜならば、農村でも「工業的体制」が労働者を「無力」にすると同時に、工業や商業はまた農業に、「土地を疲弊させる手段」を供給するからである。


大内兵衛/細川嘉六監:訳
『マルクス=エンゲルス全集 資本論 Ⅲb』大月書店 1967年
pp. 1041 ~ 1042


 この「分野」での マルクスのすべての「理論的アプローチ」の「鍵」は、社会的/エコロジー的な「物質代謝 (Stoffwechsel) 」という概念だ。この概念は「労働過程の理解」の中に位置づけられている。「労働過程」の 一般的な定義 (歴史的に特殊な表出に “対立するもの” として) で マルクスは、「労働を通じた人間の自然への関与」を説明するために「物質代謝」の概念を用いた。

 

「労働」は、まず「人間と自然との間で行われる行為」である。「労働」では、人間自身が自然に対して「自然力」の役割を果たす。人間は自分の生活上「有用」な形態を「素材」に与えて、この「素材」を (形態に)「同化」するために、自分の身体に授けられている力 … 腕と胴 … 頭と手を動かす。

人間はこの運動によって「外部の自然」に働きかけてそれを変えると同時に、「自分自身の自然」を変えて「自分自身の自然」の内に眠っている「能力」を発展させる。(中略) 労働過程 (中略) は、人間存在の「恒久的な自然的条件」である。*4


法政大学出版局刊『フランス語版資本論』上巻
pp. 167 ~ 168


 リービッヒ同様、マルクス にとって「土地の栄養素」をその土地に還すことができないことは、「都市汚染」と「近代下水道システムの非合理性」と「対」を成すものだった。『資本論 (経済学批判) 』の中で マルクスはこう述べている。

 

たとえばロンドンで、450万人の人間の「排泄物」を「巨額の費用」を使ってテムズ川を「悪臭」で満たすのに使うよりもマシな事は何も無い。


 マルクスによると、人間の「自然的物質的代謝」によって生み出された「排泄物」は工業生産や消費による「廃棄物」と同様に、「完全な物質代謝サイクル」の中にある「生産サイクル」に、戻されなければならなかった。*5

 マルクスが導き出した「都市と農村の敵対的断裂」と、それが引き起こす「物質代謝の亀裂」は共に、「世界レベル」で明白だった。「宗主国」の「工業化」を支えるため、あらゆる「植民地」は土地と … 資源と … 土壌を収奪された。

 

150年間にわたり、英国はアイルランドの「土」を間接的に輸出し、耕作者に「土壌成分」を取り戻す「手段」さえ許さなかった。*6


…と マルクスは書いている。「資本主義的農業」および「栄養分 (ことに都市の有機的排泄物) を土壌に還す必要性」についての マルクスの考えは、「生態学的な持続可能性」という、より「包括的な概念」へと彼を導いた。

 その概念とは、「合理的で 一貫した行為は理論上不可能」である「資本主義社会」の中では、実際のところ「極めて限定された正当性」しか持てないのに、「集合した生産者たちの未来社会」にとっては、反対に「本質的なもの」であると考えた。

 

特殊な (特定の) 土地生産物の栽培が「市場価格の変動」に左右されるということ … また、この「価格変動」に連れてこの栽培が絶えず変化するということ … そして「資本主義的生産」の全精神が「直接眼前の金儲け」に向けられているということ。このようなことは、互いに繋がっている「何世代」もの人間の、「恒常的生活条件」の全体を賄わなければならない農業とは「矛盾」している。


前掲:『資本論 (経済学批判) Ⅲb』大月書店
p. 798


 人間の「何世代にもわたる連鎖」のために「土地を保護する必要性」を強調することで、マルクスは「持続可能な開発」という「現代的な観念」の「本質」を捉えていた。

 その「概念」は「ブルントラント報告」が提示した …

 

「将来世代」が彼らの需要を満たすという能力を危うくすることなく、「現在の需要」を満たすことのできる開発。


… という「最も有名な定義」で知られている。*7

 マルクスにとって「土地」は、「共同財産」として人間の「何世代にもわたる連鎖」の存在と「再生産」のための、「譲ることのできない条件」であり、自覚的/合理的に扱かわれることが必要だった。こうして マルクスは『資本論 (経済学批判) 』の「有名な章」でこう書いている。

 

社会の「より高度の経済的構成体」の見地によれば、「特定の個人」による「地球の 一部に対する所有権」は、一人の人間の「他の人間に対する所有権」と同じく、馬鹿げたものに見えるだろう。


 ときに マルクスは、「労働価値説」を打ち立てる際に「自然の役割」について「無理解」であったとも批判されてきた。すなわち マルクスは「自然」が、「資本に対してなされた贈り物である」と見做すことで、「すべての価値は労働に由来する」という理論を発展させたというのだ。だが、こうした批判は「誤解」に基づいている。

 マルクスは「土地」が、「資本への自然からの贈り物だ」とする考えを考案したわけではない。この考えを「提唱」したのは トマス・マルサスと デヴィッド・リカードであり、彼らの「経済学」の著作の「中心命題」の 一つを成している。マルクスはこうした考えに本質的な、「社会的矛盾」を意識していた。『1861 ~ 1863年の経済学:草稿』の中で マルクスは …

 

「資本」によって確立された「特殊な社会関係の総体」と「環境」が結びついている在り方を考慮に入れずに、「環境」を「自然から人間への贈り物」だとする、「重農主義的な考え」に繰り返し陥っている。


… と マルサスを批判している。

 確かに マルクスは「資本主義の価値法則」によると、「いかなる価値も自然には認められない」という「自由主義経済学者」と意見が 一致していた。「資本主義」の下での「すべての商品」においてと同様、「小麦の価値」はそれを「生産」するのに必要な「労働」から生じる。

 だが マルクスにとってそれは、「交換価値を巡って創られたシステム」の中での「資本主義的商品関係」に固有の、「狭隘で限定された富の概念」を表出しているにすぎなかった。「真実の富」は「使用価値」の中にある。それは「資本主義」の形態を超えた「生産一般 (全般) 」を特徴づけている。

 したがって「使用価値」の生産に寄与する「自然」は、「労働」であると共に「富 (国富) の源泉」でもあった。

 マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で、マルクスが「超自然的創造力 (異次元の創造力) 」と呼んだものを「労働」に認めた「社会主義者」たちを痛烈に批判した。彼らが「労働」を「富の唯一の源泉」であると見做し、「自然の役割」を顧みようとしなかったからである。

 

※ この記事は フォスターの『Marx ecologiste (Editions Amsterdam, Paris, 2011) 』仏語訳からの抜粋。原著 (英語版) は『マルクスのエコロジー』と題して、2004年に「こぶし書房」から翻訳されている。




1. Anthony Giddens, A Contemporary Critique of Historical Materialism, University of California Press, Berkeley, 1981.
2. Michael Redclift, Development and the Environmental Crisis : Red or Green Alternatives ?, Methuen, Londres, 1984.
3. Alec Nove, « Socialism », dans John Eatwell, Murray Milgate et Peter Newman (sous la dir. de), The New Palgrave : A Dictionary of Economics, vol. 4, Stockton, New York, 1987.
4. Karl Marx, Le Capital, livre I, Éditions sociales, Paris, 1978.
5. Karl Marx, Le Capital, livre III, Éditions sociales, 1978.
6. Karl Marx, Le Capital, livre I, op. cit.
7. « Notre avenir à tous », rapport rédigé en 1987 par la Commission mondiale sur l’environnement et le développement de l’Organisation des Nations unies sous la direction de la première ministre norvégienne Gro Harlem Brundtland [note de la rédaction].


ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版 2018年 6月号より

 

 

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