風知空知

倭女王卑彌呼考

白鳥 庫吉
1910年


 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事何れも簡単にして、これに因りては未だ「上代」における倭国の状態を窺うに足らず。しかるに独り「魏志 (三国志:魏書) 」の「倭人伝」に至りては、倭国の事を叙述すること頗る詳密にして、しかも「伝中」の主人公たる 卑彌呼女王の「人物」は、赫灼 (カクシャク) として紙上に輝き、読者をしてあたかも、「暗黒の裡に光明を認むるが如き感」有らしむ。

「魏志」は「晋」の 陳壽 の編纂に成れりといえども、その「東夷伝」は主として「魏」の 魚豢 の著作『魏略』に基づき、ことに「倭人伝」に載せたる事実 (事蹟) は、「当代の人」が実際に「目に見」「耳に聞ける」所を記述せしもの多ければ、「史料」として最も尊重すべきものなり。

 本朝 (日本) には『古事記』と『日本書紀』の 二書備わりて「上代」の「事蹟」を伝えたりといえども、「漢」「魏」時代に当る頃は、固 (モト) より「口碑伝説」に因りて幽 (カスカ) にその状況を彷彿するに過ぎざるを思えば、当時「支那人」が我が国に渡りて「親しく目撃したる事実」を伝えたる「魏志」の「倭人伝」の如きは、実に我が国の太古史上に「一大光明」を与うるものというべし。「魏志」の「国史」に与うる価値すでに此の如くなるを以て、古来「本邦の学者」にして「倭人伝」の解釈に勢力を傾注したる者、また少なからざりき。

 しかるに「文中」記す所の「里程」および「日程」に分明を欠くところあるに因り、伝中の主眼たる 卑彌呼およびその居城「邪馬臺」などの考定に就きて「異議百出」し、今日に至るまで「史上の難問題」と称せらる。されば「後進の学者」は、卑彌呼の「事蹟」に就きてほとんど「適従」する所を知らず、為に「国史」を著わす者、この「貴重なる史料」を徒 (イタズラ) に高閣に束ねて「参考」に供せざる傾向あり。これ豈 (アニ)「史界の 一大恨事」にあらずや。

 余輩は常にこれを「遺憾」とし、些また、この問題につきて考究する所ありしが、今年の初に至り漸 (ヨウヤ) くにして「新解釈」を得たるを以て、二月 二十一日 (明治43年)「日本学会」において「論旨」の大要を講述して会員の批評を仰ぎたり。しかして「本論」は即ち当時の「講演」を増補改訂せしものなり。もしもこの「論文」が 卑彌呼に対する「史界」の注意を喚起し、この「難問題」に関して学者の新研究が続々発表せらるるに至らば「望外の幸」なり。




「卑彌呼問題」の難点は、全く「魏」の帯方郡より女王の都「邪馬臺」に至る「道程」の解釈に存ずるが故に、余輩はここに「魏志」に載する「行程」の全文を抜載し、しかして後に、逐次その「解釈」を試みんとす。
 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島

方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑

有千餘戸 無良田食海物自活 乘船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離

方可三百里 多竹木叢林 有三千許家

差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國

有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前

人好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之

東南陸行五百里 到伊都國

官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸

世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南 至奴國 百里

官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

東行 至不彌國 百里

官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家

至投馬國 水行二十日

官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里 可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳


次有斯馬國 次有己百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡


其南 有狗奴國 男子爲王

其官有 狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里


 文中に「郡」とあるは、「魏」の「帯方郡」をいえるなり。この「郡」の所在地は 那珂氏 *1 の説に従えば、今の京畿道「臨津江の江口」に在りしなり (『外交繹史』第28章「魏志倭人伝」) 。ここより船を発して九州に至るには、先ず京畿=忠清=全羅の「三道」の西海岸を南方に沿いて航行すべきが故に、文中に「乍南」とあるはこの「海路」を指ししなり。



 

 しかして船は「全羅道」西南の海角より方向を転じて東方に向い、全羅=慶尚の「二道」の南岸に沿いて「狗邪韓国」に至る。この国に就きては 菅政友氏 *2 は、これを今の巨済県と做し (『漢籍倭人考』上) 、那珂氏はこれを今の金海と做し、「韓史」の「伽耶国」=「国史」の「加羅国」ならんと考定せり。「加羅国」は当時、韓地より皇国に至る「要津」なりければ「狗邪韓国」を金海 … 即ち「加羅国」と見たる 那珂氏の説は、蓋し正鵠を失わざるべし。

「魏志」の文中に「乍東」とあるは、「全羅道」西南の海角より金海に至る「航路」の方向を云えるなり。しかして「帯方郡」より「狗邪韓国」に至る海上の里程を 七千余里となす。また文中に “到其北岸 狗邪韓國” とある「北岸」の文字甚 (ハナハ) だ穩かならざれども、これを “倭と韓の両国の間に横わる海洋の北岸” と見れば「文意」通ずべし。



 

「狗邪韓国」より九州の北岸に達するには「三海」を通過す。先づはじめにこの国 (狗邪韓国) より船を発し 一海を渡る。その間 一千余里にして「対馬国」に至る。ここには方向を明記せざれども、その南行せしは言を待たず (「目視可能」な距離) 。「対馬国」より更に南行して「瀚海 (カンカイ) 」を渡る。その間 一千余里にして「一大国」に至る。ここに「一大国」とあるは「一支国」の誤りなること「先輩」すでにこれを論ぜり。

 

草書体で解く邪馬台国の謎
(井上悦文:久留米地名研究会)

 

 さて、「一支国」よりまた南行すること 一千余里にして「末盧国」に至る。「末盧国」は今の「肥前ノ国:松浦郡」にして、『古事記』の「仲哀天皇の条」に “筑紫 末羅縣” …「神功紀」に “火前國 松浦縣” とある、すなわちこれなり。しかして当時「韓国」へ往来する船舶が「松浦郡」の那辺に碇泊せしかに就きては、那珂氏の『外交繹史』に …
 

『萬葉集 (十六) 』ニ、“神亀年中 太宰府差 筑前國 宗像郡之百姓 宗形部津麻呂 充對馬送糧 舶柁師也” 云々、“自肥前國松浦縣 美彌良久埼發舶 直射對馬渡海” トモアレバ、菅氏ノ説ニ、「漢土」ニ渡ルニモ、「對馬」ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ。「西北ニ向フニ便リヨキ地」ト思ハルレバ、「海路」モオシハカリ知ラルベシト云ヘリ。


… と説かれたり。「魏国」の使者が倭国に渡れる時も、おなじくここ「美彌良久の埼」に由りしなるべし。しかしてこの埼 (岬) は松浦郡の値嘉島にあり。

 さて、「末盧国」より「東南」に向い陸行すること 五百里にして「伊都国」に至る。「伊都国」は今の「筑前ノ国:怡土郡」のことなれば、松浦郡の値嘉島より上れば実は「東北」に当れど、「魏」の使者は少しくその方向を誤りて「東南」とせり。

 また、「伊都国」より「東南」に向い陸行すること 百里にして「奴国」に至る。「奴国」は「仲哀紀」の “儺県” …「宣化紀」の “那津” にて、今の「筑前ノ国:那珂郡」の博多の近傍なりしこと、「先輩」すでにこれを説けり。さればその方向、実は「東北」に当れるを、「魏」の使者はこれを「東南」と誤れり。

 また、「奴国」より「東行」百里にして「不彌国」に至る。この国の所在は未だ詳 (ツマビラカ) ならざれども、その「奴国」… すなわち博多よりの距離を以てこれを考え、また、ここより後の「行程」が常に「南方」に在りし事情に因りてこれを推測し、「太宰府の付近」と考定せば大過なからん。太宰府は博多の「東南」に位するを、「魏」の使者がこれを「東方」と報告せしは、また「例の誤り」なり。

 

女王の都」― より

 

 この如く「末盧国」より「不彌国」に至る「魏志」の方向には「誤謬」あれども、「東北」を「東南」とし「東南」を「東方」と「誤解」するが如きは、「古代の旅客」にありては往々見る所なり。もしこれを以て「魏志」の記す所の方向は毫 (ゴウ) も憑據 (ヒョウキョ) するに足らずと思惟する者あらば、それは大いなる「謬見」なり。

 この書 (魏書) 、「帯方郡」より「狗邪韓国」に至る方向を「乍南乍東」と記し、また「狗邪韓国」より「末盧国」に至る「航路」の方向を常に「南」と書するが如きは、その方向の正確なるを證するものにあらずして何ぞや。「末盧国」より「不彌国」に至る方向において「些少の誤解」あるにもせよ、その大体の方向が「東方」に在りしことを誤らざるなり。「魏志」記す所の方位は「卑彌呼問題」の解決に「最大関係を有する」ものなるが故に、特に一言を添うるのみ。



 

 以上記載せる「道程」の里数を計算するに、「帯方郡」より「狗邪韓国」に至る間は 七千余里、「狗邪韓国」より「対馬」「一支国」を経て「末盧国」に至る間は 三千余里、「末盧国」より「伊都国」に至る間は 五百里、「伊都国」より「奴国」に至る間は 百里、「奴国」より「不彌国」に至る間は 百里なれば、「帯方郡」より「不彌国」までの総里数は 一万七百余里となる。しかして「帯方郡」より女王の都「邪馬臺国」までは 一万二千余里と記されたれば、「不彌国」より「邪馬臺国」に至る里数は僅に 一千三百余里に過ぎず。

「魏志」の文面を案ずるに、「帯方郡」より「不彌国」に至るまでの「行程」はすこぶる分明なれば「諸家 (研究者) 」の考定ほとんど 一致すれども、この国 (不彌国) より「邪馬臺 (国) 」に至る「行程」に関しては「見解」区々に分かれたり。しかしてこの「行程」の解釈は「本論の主眼」なるが故に、ここに「卑見」を開陳するに方 (アタ) りて先ず従来の諸説を列挙すべし。

『日本書紀』を案ずるに、神功摂政「三十九年の条」に …

 

魏志云 明帝 景初三年六月 倭女王遣 大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏遣吏將 送詣京都也

 

… と註し、同じく「四十年の条」に …

 

魏志云 正始元年 遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬 詣倭國也

 

… と註し、また「四十三年の条」に …

 

魏志云 正始四年 倭王復遣使 大夫伊聲者 掖耶約等八人上獻

 

… と註したれば『書紀』の編者は「暗」に、神功皇后を以て 卑彌呼女王に擬せしなり。この書 (日本書紀) すでに 神功皇后と 卑彌呼とを「同一人物」と見たりとせば、「大和の京」を以て「魏志」の「邪馬臺国」と考定せしに相違無かるべく、従って「魏」の使者は「不彌国」より「東行」して彼処 (邪馬臺国) に入りしものと思惟せしなり。

『書紀』成りてより以来ほとんど 千余年の間、「本邦の学者」にしておなじく 卑彌呼の事を論ぜし者無かりしが、元祿元年、松下見林 *3 は異稱日本傳を著わし『後漢書 ― 倭国伝』の解釈に、“今按「邪馬臺 (ヤマト) ノ國」ハ「大和ノ國」也。古謂 「大養徳國」、所謂「倭奴國」也。「邪馬臺」ハ「大和」ノ「和訓」也。” と云われたり。蓋し氏の如きは『書紀』編者の意見を「公然と表白」せしものというべし。

 松下氏の説 一度出でてより「幕府の学者」はほとんどこれに「雷同」し、また 一人としてその間に「疑議」を挟む者無かりき。然るに 本居宣長氏 *4 は馭戎慨言を著わし、卑彌呼を以て 神功皇后に当つるの「非」なるを痛論し、その九州に拠れる “熊襲の輩” なるべきを「弁證」せり。同氏が「魏志」の「行程」に関する考察は、余輩の意見に「合する」所多ければ、次にその 一節を引用すべし。

 

この時にかの国へ「使」をつかはしたる由しるせるは皆、まことの皇朝 (スメラミカド) の「御使」にはあらず。筑紫の「南のかた」にていきおいある、熊襲などのたぐいなりしものの、女王の御名のもろもろの “から戎 (くに) ” にまで高くかがやきませるをもて、その「御使」といつわりて、「私」につかわしたりし「使」也。

その故は、まづ右の文にかの国の「帯方郡」より、女王の都にいたるまでの 国々をしらせるは、かの、「かしこの使」の大和 (オホヤマト) の京へ参るとて、経 (へ) て来つる道の程をいへる如くに聞ゆめれど、よく見ればまことは大和 (オホヤマト) の京にはあらず。

いかにというに、まづ「對馬 (ツシマ) 」「一支 (イキ) 」「末廬 (マツラ) 」「伊都 (イト) 」までは、しらせる如くにてたがわざるを、その次に「奴国」「不彌国」「投馬国」などいえるは、「漢=呉音」はさらにもいわず、今の「唐音」をもてあてても、大和への道には「さる所」の名共あること無し。また「不彌国」より女王の都まで、「南」をさして物せしさまにいえるもかなわず。大和は筑紫よりはすべて「東」をさしてくる所にこそあれ。

また「自女王国以北」といえるもたがえり。「以西」とこそいうべけれ。自ら来たらんに、かく「北南」と「西東」とをわきまうまじき由無きをや。また「投馬国」より女王の都まで「水行 十日」「陸行 一月」といえる、「水行 十日」はさも有リぬべし。「陸行 一月」はいと心得ず。「月」の字は「日」の誤なるべし。

さて、「一日」としてはいづこの海辺よりも「大和の京」へ入りがたく、また「一月」ならんには、山陽道のなからのほどより、陸路 (クヌガヂ) をのぼりしとせんか。さること有るべくもあらず。古ヘ「西の国」より大和へのぼるにはすべて、難波 (ナニハ) の津までは船より物するぞ「定まれる」ことなりける。

かくあまたたがへる事共のあるは、「大和の京」にあらざりし「印し」にて、誠には、かの筑紫なりしものの、おのれ「姫尊」也といつわりて、「魏王」が「使」をも受つるに「あざむかれ」つるものなれば、その「使」の歴 (へ) て来たりけん国々も、女王の都と思いしも、皆「筑紫の内」なりけり。

されば「不彌国」というより、「投馬国」などいえるもみな、筑紫のしまの「東」べたを「南」をさして物せし「海つ路」にて、その過し方を「以北」といへるもこの故なり。また周旋可 (バカリ) 五千余里といえるも「筑紫の洲 (シマ) 」にて、ほとりの嶋々かけたる程によくかなえり。

さて、“女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種” なりといえるも「大和」にしてはかなわず。これも筑紫より海をへだてて「東」なる、「四国」をいえるなり。


 本居氏が 卑彌呼を以て「熊襲」に擬したるはさらなり。その「行路」「局部の解釈」においても、余輩悉 (コトゴト) くはこれに「賛成」すること能わざれども、女王の「住地」を九州に当てたる大体の論に至りては実に「敬服」の外無く、蓋し当時 ( 江戸時代 ) における「卓見」と称すべし。




 本居氏の此論文によりて当時の学者は殆ど女王卑彌呼を熊襲の類と見做すに 一定せしが、さて「魏志」の不彌国より邪馬臺国に至る行路につきては大体 二説に分かれたるが如し。一は 本居氏自身の唱へ出でたるが如く不彌国より九州の東海岸に出で、これを南方に航行して熊襲の国に至れりとなす説。また 一は不彌国即ち太宰府の附近より筑後に下り、有明の内海を南方に航行して熊襲に至れりとなす説即ち是なり。鶴峯戊申 ※5 は其著『襲國僞僭考』に於いて、「魏志」上文の 百里を不彌国より投馬国に至る里程と誤解して曰く …
 

投馬は「和名鈔」筑後郡名 “上妻(加牟豆萬:カムツマ)下妻郡 准上” とある “妻” なるべし。「兵部式諸國驛傳馬」に “筑後國傳馬 御井・妻狩道 各五疋” とあり。此處より水行 二十日にして大隅國 囎唹郡に至るべし。今、上妻・下妻の間に矢部川あり。即ち柳川の川上なり。此川を下りてまた内海に浮び南方に到るべし。


… と。蓋し氏は「九州西岸航行説」を主唱せられしなり。また 近藤芳樹氏 ※6 は倭女王の都邪馬臺を、“肥後の菊池郡 山門郷なるべし” と説かれたれば、鶴峯氏の如くまた「西岸航行説」を執れる論者の 一人なりしなり。菅政友氏は『漢籍倭人考』「投馬国の条」に …
 

不彌國ヨリ南ニ向ヒテ進ミ行クコト 二十日ノ後ニ、投馬國ニハイタルトノ義ナレバ、必ズ内海ニハアラズ、豐前・豐後ノ東洋ヲ經テ、日向アタリ所謂 投馬國ナラント覺シケレバ、本居翁ノ説オホカタハ違ハサルベシ。


… と云い、また邪馬臺国の条に …
 

水行 十日陸行 一月トイヘルニツキテ思フニ、兒湯郡アタリヨリ贈於郡ニ至ランニ、海陸トモニサバカリ多クノ月日ヲ經ベキニモアラネバ、本居翁ノ考ノ如ク、月ハ日ノ誤リニテ、此ハ船路ヨリ直チニ今ノ大隅國佐多岬ヲ廻リテ鹿兒島灣ニ入リタルモノト覺シク、水行ハ 十日ニテ陸行 一日トアランニハ、サモコソト思ヒナサルルナリ。


… と説かれたれば、氏は 本居氏の説を祖述せし「東海航行論者」なりしなり。

「修史局」の編纂に係る『國史眼』には「魏志」の行程を明瞭に記述せざれども、“投馬” の名を “設馬” の誤りとなし之を “薩摩” に当てたるによりて之を推すに、不彌国より以下邪馬臺に至る行路は九州の西海岸を経由せしものと考察せしなり。また「修史局」の説を継承して而も之を 一層発達せしめたるものを『日韓古史斷』となす。同書「筑紫の章」に曰く …
 

從來不彌以上はほぼ定説あり。其の設馬は今、「修史局」薩摩に擬す。其の邪馬臺はなほ異説多し。蓋熊襲の都噌唹城のみ。「魏志」の行程設馬に至るの路間、若干の陸行を脱し、其の水行 二十日は筑後河の舟筏と、不知火の内浦航路にして、設馬は 五萬餘戸、今の薩摩の全境にして、阿久根以南を云ふ。故に水行 十日陸行 一月は既に隼人海峽黒迫門を踰え、薩摩潟を渉り噌唹に着するものとす。

然るに水行 十日せば開聞の海角を迂囘するも、ほぼ櫻嶋の内灣に達し得べく、また別に陸行 一月の長程を要せざるなり。因て疑ふ、月は皆、日のあやまれるにや。當に水行 十日、陸行 一日と爲すべきなり(また按ずるに、舟にて加世田港まで來り、陸に上り谿山に至り、一日にしてまた舟にて噌唹の大津に達せしにや)。


… と。那珂氏は 菅氏の説に対しては、“筑前博多ヨリ贈於郡ニ至ルニ、豐前=豐後=日向ノ東ニ沿ヒテ、佐多岬ヲ廻リテハ、イカニ地理ニ暗キ古代トハ云ヘド、餘リノ迂囘ナレバ、信ゼラレズ。” と云いて之を排斥し、また『古史斷』の説に対しては 菅氏などの説に愈れるに似たりとのみ云いて、明に自説を発表せられざりき。



囎唹郡:B4(1871年 12月末)
地理のページ」 – より
 

 以上述べ来れる所によりて知らるるが如く、本居氏の説出でてより以後「本朝の学者」は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて 一致したるに、独り 三宅博士 ※7 と 星野博士 ※8 とは「時流」と異れる見解を有せり。

 三宅氏は『漢委奴國王印考』(「史學雜誌」第三編 第三十七號)に於て、“不彌(不詳)千餘家、投馬(備後=備中ノ内ナルベシ)可 四萬餘戸、邪馬臺(大和)可 七萬餘戸。” と云われたれば、博士は「魏志」の邪馬臺を 五畿内の大和と見做し卑彌呼を神功皇后に擬したるなり。果して然りとせば、博士は「卑彌呼問題」を『書紀』編纂時代の旧説に翻したるものと謂うべし。また 星野博士は「史學雜誌」に於て、「神功紀」に “轉至山門縣則誅 土蜘蛛田油津媛” とある山門県即ち筑後の山門郡を以て邪馬臺国と考定せり。那珂氏が博士の説に対して …
 

此ノ山門郡ハ、筑前ナル國々ト相近クシテ、「魏志」ノ行程ニ合ハザルコトハ、近藤氏ノ山門郷ヨリモ甚シ。博士ハ「魏志」ノ文ヲ引クニ、伊都ノ國ヨリ邪馬臺マデノ行程ヲバ略カレタレドモ、コレラノ行程ハ、國々ノ位置ヲ求ムルニ必要ナルモノナレバ、多少ノ誤謬ハ免レズトモ、全クハ棄ツベキ者ニアラズ。

今其ノ略カレタル行程ヲ算スルニ、東南 百里、東行 百里、水行 二十日、及 十日、陸行 一日ニシテ、少クトモ水陸 三十餘日ハ費シタルニ、怡土郡ヨリイカニ迂廻シテモ、陸行 四、五日ニ過ギザル山門郡ヲ以テ之ニ當ツルハ、地理甚違ヘリ。


… と論難せられたるは、尤も余輩の「意を得たる」ものなり。



 

 以上、従来提出せられたる主要の諸説を列挙し盡したれば、此より卑見を開陳する順序となれり。余輩の考うる所に拠れば「卑彌呼問題」をして此の如く解決に困難ならしめたる原因の 一は、「魏志 ― 倭人伝」に記されたる里数の「標準」が概して短少にして、支那国に行われたる古今の尺度に合せざるに在るが如し。

 例えば、帯方郡即ち臨津江口より狗邪韓国即ち金海に至る海上の距離は大約 二百余里なるを、「魏志」には 七千余里となす。故に此間の 三十五里は我が 一里に当る。また、狗邪韓国より九州の末盧国即ち松浦郡に至る海上の里程は大約 六十余里に過ぎざるを、「魏志」には之を 三千余里となす。故に此間の 五十里は我が 一里に当る。また、末盧国より不彌国即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約 三十里を出でざるに、「魏志」には之を 七百里となす。故に此間の 二十三、四里は我が 一里に当る。

 此の如く「魏志 ― 倭人伝」に見えたる里程の「標準」は区々にして 一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた、大に短縮せり。大谷文学士 ※9 の調査(「東洋時報」第122號)によれば、漢時代の 一里は「官尺」にて我が 三丁五十五間、「後漢・建武銅尺」にて 三丁五十一間に当り、唐時代の 一里は「小尺」にて我が 四丁四十二間、「大尺」にて 四丁五十一間に当る。而して現時の 一清里は我が 五丁十七間なり。

 然るに「魏志」記す所に拠れば「長里」を取るも、其の 一里は我が 一丁三十四間に過ぎざれば、漢・魏時代の標準は「魏志」里の約 二倍半に当る。然れば帯方郡より不彌国に至る 一万七百余里とあるは 一見甚だ大数の如くなれども、其実我が 二百九十余里の短距離を言えるにて、之を魏時代の標準里に換算するときは大約 二千七百余里に過ぎず(備考:一里=三十六丁:一丁=六十間)。

 因て思うに、『書紀』の編者をはじめとして 松下などの学者が邪馬臺国を大和と考定して怪まざりしは、畢竟「魏志」に 一万二千余里とある「里数の大なるに眩惑」して、その示す実際の距離を考慮せざりしにも因るべし。「魏志」の示す所によりて之を推すときは、邪馬臺国は不彌国より 一千三百余里に当れば、女王国が大和にあらずして九州の地域にあるべきは亦論を待たず。然れども「魏志」に載する所里程の「標準」一定せず。

 今、仮に上の 一千三百余里を此書示す所の「長里」にて算すれば大約我が 五十七里となり、また「短里」にて算すれば大約我が 二十六里となる。此の如く「魏志」の里程に処によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌国より南方 一千三百余里とあるを根拠として「邪馬臺国の所在」を的確に推知することは殆ど不可能の事に属す。然し不彌国より邪馬臺に至る行程には日数を挙げたれば、此日数に拠りて「女王国の位置」を探らんか。即ち不彌国より邪馬臺国に至るに水行 三十日陸行 一日総て 三十一日を要せり。

 今、仮に魏の使者は 一日 七里の行程を以て前進したりとせんか、三十一日にして 二百十七里を行くべし。不彌国即ち博多附近より南に於いて此里程に当る地点を求むれば、琉球諸島の中大島あたりに落つべし。然れども此くては実際に合わざることとなれば、日数を楯に取りて「女王国の位置」を正確に推測すること亦不可能の事たり。

 それ既に里数を以て之を測るも、また日数を以て之を稽うるも「女王国の位置」を的確に知ること能わずとせば、果して如何なる事実をか捉えて此問題を解決すべき。余輩は幾度か「魏志」の文面を通読玩索し而して後、漸くここに確乎動かすべからざる「三箇の目標」を認め得たり。然らば則ち所謂「三箇の目標」とは何ぞや。曰く、“邪馬臺国は不彌国より南方に位する” こと。曰く、“不彌国より女王国に至るには有明の内海を航行せし” こと。曰く、“女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと” 即ち是なり。

 さて此の中第一、第二の 二点は「魏志」の文面を精読して忽ち了解せらるるのみならず、先輩已に之を説明したれば姑く之を措かん。然れども第三点に至りては、「魏志」の文中明瞭の記載あるにも拘らず、余輩が「日本学会」に於て之を述べたる時までは何人も嘗てここに思い至らざりしが故に、また此点は本論起草の主眼なるが故に、余輩は狗奴国の所在を以て、此問題解決の端緒を開かんとす。

 狗奴国に就きては『外交繹史』に …
 

菅氏云、大隅ヨリ南ニハ、種子・屋久ナドイフ、ササヤカナル島々ハアレド、共ニ攻撃スル程ノ國無ケレバ、此ノ狗奴國ハ、モト下ノ “女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種” トアル地ノ内ナルヲ、陳壽ガ、東ヲ南ト誤リタルナラン。サレバ『後漢書』ニハ、之ヲアハセテ “自女王國東 渡海千餘里 至狗奴國 雖皆倭種 而不屬女王” ト改メタリ。

其ノ狗奴國ハ『馭戎慨言』ニ、「伊豫ノ國風早ノ郡に “河野(カフノノ)郷(サト)” あれば、それなどをいへるか。魏志に狗奴國の男王といへるも、すなはち此河野のわたりをうしはきゐたりしものをいふなるべし」 トアリ。

『日韓古史斷』ハ更ニ進ミテ、「狗奴ハ “河野” ニシテ、“其官有狗古智卑狗” ハ、河野氏ノ遠祖 子致彦(コチヒコ)ヲ云フ」 ト云ヘリ。其ハ『國造本紀』ニ、“小市(伊豫國越智郡)國造 輕島豐明朝(応神天皇)御世 物部連同祖 大新河命孫子致命 定賜國造” 、「氏族志」神別・越智氏ノ條ニ、“大新河孫子致命 應神帝時爲國造” 、『舊事本紀』云々 “文武帝時 有越智玉興者 爲伊豫大領(本書不言何郡盖越智郡也)玉興弟玉澄居河野 其後爲河野氏” 云々、河野系圖「豫章記」“越智氏 累世居伊豫 支族蕃滋” 云々(而河野氏尤著)トアルニ由リテ、ソノ “子致命” ヲ “子致彦” トシテ、“狗古智卑狗” ニ附會シタルナリ。

マタ『國造本紀』ニ、“久努(遠江國山名郡久努郷)國造 筑紫香椎朝代 以物部連祖 伊香色男命孫印播足尼 定賜國造” トアルニ由リテ、「河野は初め久努に作る。久努國造は即越智氏同族にして、伊豫より出でたり。すべて越智の一族、東國に遷れる者、三河・遠江・伊豆・駿河に蕃息し、三島を氏神として尊崇するは、伊豫なる “大三島ノ神” の氏子たる明證なり」。

マタ、「越智(小市)風早(風速)の二國造、應神の朝に定め賜へり(『國造本紀』)と云へれども、是の時初めて入國せりと思ふべからず。從來早く土著したりしならん。越智は物部氏と同祖なれば、自ら別系なり。越智の祖伊香色男は、蓋孝元帝の時の人なり。其の子は大新河にして、また其の子は十千根なり。十千根は垂仁帝の時、物部連の尸を賜はりて、物部氏の祖となれり。されば孝元・垂仁の間に、伊豫に越智氏の領國すでに定まれるなるべし」ト云ヘリ。

マタ “男子爲王” ハ、下文ニ “男王卑彌弓呼” トアルニ由リテ、『日韓古史斷』ハ、“卑彌弓” ヲ “日子” ト讀ミテ、“伊豫國造ノ皇別ヨリ出デデ、當時來リテ其ノ國ヲ鎭メタマヘルヲ謂フニ似タリ。越智氏、武臣トシテ世々王子・王孫ヲ奉戴シテ、地方ヲ綏撫セシモノト思ハル” ト云ヘリ。

伊豫ノ國ノ造ハ『古事記』ニ、“神八井耳命者 伊余國造等之祖也” 、『國造本紀』ニ、“伊余國造 志賀高穴穗朝(成務天皇)御世 印幡國造祖 敷桁彦(シキケタヒコ)命男 速後上命 定賜國造” トアル者ニテ、『古史斷』ニハ 栗田寛氏 ※10 ノ考ヲ引キテ、「この國造は成務帝の時に定まれるにあらず、早く崇神帝の朝に賜はりしならん」ト云ヘリ。此等ノ説イト巧ニハ辨ゼラレタレドモ、想像ニ成レル事多クテ、確證少ケレバ、慥ナル事ハ知リ難シ。


… と評せられ、那珂氏自身は狗奴国に就きて別に意見を示されざりき。

 此の如く従来の学者が狗奴国を九州以外に置きて毫も之を怪まざりしは、「魏志」の本文を精読せずして專ら『後漢書』の文面に信頼したるに因るなり。学者若し余輩の言を疑わば、試に下に引用する「魏志」の本文を熟読せよ。
 

自女王國以北 其戸數道里 可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡

其南 有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

(中略)

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種

又有侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王四千餘里

又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至


 此の中、“女王國東 渡海” 云々以上の文意を案ずるに … 末盧・伊都・奴・不彌・投馬諸国の戸数道程は前文の如く之を略載し得べけれども、其余の傍国に就いては詳なること知るべからず。然れども斯馬国以下奴国に至る 十七ヶ国ありて、而して奴国は女王界の盡くる所に位す。また女王国の南には狗奴国ありて、男子を王とし女王に属せず … と云う趣に解せらる。されば倭国即ち九州の全部は女王の所領にあらずして、その南部は狗奴国の版図に属せしなり。然るに『後漢書』の編者 范曄は上段掲載の文面に據り、而も大に之を省略して下の如き文をなせり。
 

自女王國東 度海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王

自女王國南 四千餘里 至朱儒國 人長三 四尺

自朱儒東南 行船 一年 至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣


『後漢書』の此文を以て「魏志」の本文に対照するときは、「前者」が「後者」を剽竊 踏襲したる形跡顕然とし亦敝うべからず。然るに独り怪むべきは、『後漢書』が「魏志」の原文に女王国の南にありとせる狗奴国を擅に移して、女王国の東方 千余里の処にありと記せる倭種の住地に置かるること是なり。これ正しく「原書の意」と背馳し誤謬を後世に伝えたるものと謂うべく、本朝の史家が女王国の方位に就いて正当の解釈を得ざりしは全く此「曲筆」に基く。

 然れども更に之を考えるに、『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、実は 范曄が「魏志」の本文を誤解したるに因るなり。然らば編者は如何に此の本文を誤解したるかと云うに、「魏志」に “女王国より以北にある国々の戸数道里は略載すべし” とあるに誘われて、其下文に “その余の旁国遠絶にして詳に知るべからず” とあるを、ひたぶるに女王国以南の国々と思い込みしなり。

「魏志」に “次有奴國 此女王境界所盡” とある文面は必しも之を「女王国の極南にあり」と云う意に取るべからざるを、『後漢書』は実に之をかく思惟したるのみならず、この奴国はまた倭国即ち九州全島の極南界にありと誤解せり。其徴は、同書「倭国伝」に “建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也” とある是なり。此の倭奴国は 三宅博士が既に説けるが如く、伊都国の東なる奴国即ち国史の “儺県” なるを、范曄は「魏志」が旁国として列挙せる 十七ヶ国の末尾に見えたる奴国と誤解したるなり。故に 范曄は「魏志」載する 二ヶ処の奴国を 一国と誤り、而も之を女王国の極南界即ち倭国の極南界にありと見たりしなり。

 編者已に奴国を倭国の極南界にありと思惟せしかば「魏志」に “其南有狗奴國” とある文面に逢着して、狗奴国の方位遂に解すべからざることとなりぬ。因て 范曄は之を以て 陳壽の誤謬と断定し、適々「魏志」の下文に “女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種” とあるに思いつきて狗奴国を之と連結せしめ、“自女王國東 度海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王” とある文を結構せるなり。

「魏志」の文を熟読するに、漢・魏時代に倭国と云うは主として九州地方を指ししものにて、此島より以東に位する四国あたりは、未だ倭国の範囲に包含せしめざりしものの如し。さればこそ上文に見ゆる如く “復有國 皆倭種” とのみ云いて其国名を挙げざりしなれ。故に女王国の東なる倭種の国より以下裸国・黒齒国の事を記せる一段は、已に倭国即ち九州に據れる女王国および狗奴国の事を敍し去りし後に、其処より絶遠なる国々の事を附記せるなり。

 倭国即ち九州内に於ては「魏使」が通行せし沿道の国は更なり、絶遠の国々と雖も猶其名称だけは聞き伝えたれど、女王国の東方 千余里の外に僻在せる孤島に就いては其の住民の倭種たるを幽かに聞き得たるのみにて、其国の何と呼びけん名称さえも定かに知られざりしなり。

 之に反して狗奴国は倭国の南部に拠りて女王国と土壤を接したればこそ、其王の卑彌弓呼たることも其官の狗古智卑狗たることも、また其国が女王国と相攻伐したることもよく魏国に知られたるなれ。此の如く「魏人」に熟知せられたる狗奴国を以て、王名官名は更なり国名さえも知らざりし東方絶遠の倭種国に当てたる『後漢書』の著者は、全く「魏志」の文面を了解せざりしものと謂うべし。

 若しも以上の推論に誤謬なしとすれば、後漢末より三国時代にわたりて倭国即ち九州全島は南北の 二大国に分裂し、北部は女王国の所領とし、南部は狗奴国の版図として、両々相対峙し久しく相譲らざる形勢をなししなり。然るに魏の正始 八年に至り、女王国と狗奴国との間に戦闘起り女王卑彌呼は此乱中に没したりと見ゆれば、此戦争が女王国の敗北に終れることと察すべし。

 狗奴国が倭国の南部に拠りて而も此の如く強勇なりしを以て之を観れば、此国こそ実に国史の所謂「熊襲国」に当つべきものなれ。而して、熊襲の領土は大隅を中心として薩摩・日向の大部分を包括したれば、三国時代に於ける狗奴国の境域も殆ど之と同一なりしと見て不可なかるべし。

 従って此国と対抗したる女王国の領地が「豊・肥・筑」前後 六国に跨りたること亦察するに難からず。而して女王の都邪馬臺国の位置は此形勢に鑑み、また「魏志」に載する所の里数日数および行路の状況を参酌して、其全領域の西南部にありしこと余輩の安んじて断言し得る所なり。



 

 既に前にも述べたるが如く「魏志 ― 倭人伝」に示せる方向は処によりて些少の誤謬あるを免れざれども、大体に於いて正確を失わざれば 奴国・不彌国などより南方にありと明記せられたる邪馬臺国が、筑前より南方に位せしは明なり。

 また不彌国より邪馬臺国に至るに水行 三十日、陸行 一日、総べて三十一日を要せしとあるは過多に失する嫌あれども、魏国の使者が実際陸行して水行せざりしならんには、何が故に此く「虚報」を作為する必要ありしか余輩は其理由を見出すこと能わざるが故に、此記事によりて使者が「有明の内海を航行せしもの」と断定して不可なきを信ず。

 また邪馬臺国の南に狗奴国と称する大国ありて、女王国と拮抗せしことは前文既に之を説き盡したりと思惟す。

 余輩は以上「三個の理由」によりて「女王の領土」は九州の北半に跨がり、而して其都邪馬臺国は、此全版図の西南部 … 即ち「肥後国の内にあるべき」を信ぜんと欲す。女王の都既に「肥後の内にあり」と 一決せば、ここに「二個の疑問」は提出せらるべし。

 曰く、帯方郡より邪馬臺国に至る実際の里程は 三百 三、四十里にて、之を後漢の「建武の銅尺」にて計算すれば 約 三千一百里を出でざる距離なるに、「魏志」が之を 一万二千余里と計上したるは何故なるか。

 曰く、不彌国より邪馬臺国に至る実際の道程は 三、四十里の間に出入する短距離なるに、「魏志」が之を 三十一日程と明記せるは何故なるか。

 余輩の議論をして確実ならしむるには尚、此等の疑問に対して合理的の説明を与うる必要あり。此等の疑問を解決するに方りて先づ第一に研究すべきは、「魏志」が帯方郡と邪馬臺国との距離として与えたる 一万二千余里なるものが、果して当時の「標準里」に由れるものなりや否やの事是なり。漢土に行われたる「尺度の制」を案ずるに、時代によりて多少の長短ありしと雖も其 一里は我が 三町五十一間より四、五町の間に出入し、かつて「魏志 ― 倭人伝」に見えたるが如き「短少の里程制度」ありしを聞かず。

 然れども「魏志」が此処に示せる里数は、処によりて伸縮を見るも其全道程を通じて悉く普通の「標準里」よりも短少なるが故に、或は之を以て魏時代に行われたる制度なりしと思惟するもの無しとも保し難し。

 因て余輩は「魏志」が他の処に示せる里程を考究して、その果して「倭人伝」に与えたる里程と吻合するや否やを見んとす。

「魏志」卷三十「高勾麗伝」を案ずるに …

“高勾麗 在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接 都於丸都之下”

… とあり。遼東郡治は今の遼陽附近にして、高勾麗の都丸都城は今の輯安県 石板嶺の麓に当たれば、其間の距離は我が 九十里と 百里との間にあり。然れば「魏志」が「高勾麗伝」に記せる 千里は「普通の標準里」によれるものと見るべく、而して「倭人伝」に示せる里程と合せず。

 また同書「夫餘伝」によれば、夫餘は玄菟の北 千里の処にありと記せり。玄菟郡治は今の奉天近傍にて、夫餘の都城は今の農安=長春のあたりにありしと思わるれば、その間の距離は大約我が 百里もあるべし。然れば此処に示せる「魏志」の里数もまた「普通の標準里」により計算せしや明かなり。

 また『三國志』卷四七「呉王伝 ― 嘉禾 二年の条」に引用せる『呉書』に …

“玄菟郡 在遼東北 相去 二百里”

… とあり。遼東郡は今の遼陽附近に位し玄菟郡は今の奉天附近に治したれば、その間大約我が十七里なり。また同書に、「呉国の使者秦旦=張群=杜徳=黄疆等が玄菟郡より逃れて、高勾麗に走れる時に、初に 六、七百里を行き、後に数日を費して、高勾麗王宮の都、即ち丸都城に達せり」とあり。玄菟郡より丸都までは大約我が 九十余里なり。また「魏志」卷三十「韓伝」を見るに …

“韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓”

… とあり。三韓の地は今の慶尚=全羅=忠清三道を包括せり。此地域の周廻につき今精細なる里数を挙ぐること能はざれども地図の上にて之を概算するに、蓋し我が 三百里を下らざるべし。また同書「鮮卑伝」、檀石槐の領域を記せる処に …

“北拒丁令 東却夫餘 西撃烏孫 盡據匈奴故地 東西 萬二千餘里 南北 七千餘里”

… とあり。夫餘は今の農安長春の南北に據り、烏孫は今の天山の西部に住み、其間大約我が 千里を距つ。

 此の如く「魏志」、「呉志」など「倭人伝」以外の処に挙げたる里数は大概「普通の標準里」に該当し、一として「倭人伝」中の帯方郡より邪馬臺国に至る処に示せるが如き「短少なる里数」にあらず。またさらに「魏志 ― 倭人伝」中に記せる里程を考究するに、帯方郡より邪馬臺国に至る道程のみが甚しき「短里」にて 一万二千余里と云う大数となり居れども、魏の使者が通行せざる即ち「沿道以外の処に係る里程」が之に反して「普通の標準里」によれるが如く思わるるは、大に注意を要すべき点なりとす。

 例えば「倭人伝」によれば一支国は方 三百里となり、而して 伊能忠敬 ※11 の「実測録」に此島の沿海周廻は三十五里 十五丁 五十九間半とあれば、「魏志」の之を 三百里と云えるは大かた「標準里」に違はず。

 また「魏志」は、倭国の周廻を記して “周旋可 五千余里” といえり。「実測録」によれば九州の沿海周廻は 八百六十里 七町 四十九間半とあり。此里数は沿岸の湾曲せる部分をも精細に実測したる結果なれども「魏志」の挙ぐる所は沿岸の概略を目算したるものなれば、かの 五千余里といえるも大方実際にかなえり。

 此の如く、「倭人伝」に一支および倭国の周廻を言える所は当時の「標準里」に合するに反して、独り対馬島の周囲を記して “方可 四百餘里” とあれども、「実測録」によれば上之島の沿海周囲 五十里 一十四町 二十一間半、下之島の沿海周廻は 一百三十五里 三十一町 一十九間半とあれば、両者の間に多大の差異あり。

 思うに伝の 四百余里といえるは、上之島の周囲をのみ挙げたるにはあらざるか。然らざれば魏の使者の誤算なり。其は何れにしても「魏志」が帯方郡より邪馬臺国に至る 三百三、四十里の距離を数うるに 一万二千余里という大数を挙げたるに、周廻 百八十余里ある対馬島に於いて僅に 四百余里といえるは甚しき相違というべし。



女王の都」 – より
 

 以上、考證せし所によりて知らるるが如く「魏志」、「呉志」中に挙げられたる里程は大概「漢時代の標準里」に合するのみならず、「魏志 ― 倭人伝」に於ても帯方郡より邪馬臺に至る道程を除きその他の処に記せる里程は亦「標準里」に比して大差なきを見る。然るに独り帯方より邪馬臺に至る道程に限り、古今に比類なき「短里」を以て計上し 一万二千余里という大数を表出したるは、大に怪まざるを得ず。唯に里数に於いて過大なるのみならず、日数を挙げたる所に於いても其里程の短距離なるに照合して、亦その過多なるに驚くべし。

 既に「里数」に於いて当時の制度に合せず、また「日数」に於いても常軌を逸したるより之を考うれば、魏国の使者は「何事か為にする所」ありて、故らに「里数・日数」を誇張したるものと断定せざるを得ず。



福知山市広峯15号墳出土三角縁神獣鏡銘文
 

 若しも魏国の使者が誠実に「一定の標準」を立て之に依りて道程を計上せしとするも、不彌国より邪馬臺国に至る 一千三百余里(実は我が 三十四里)を行くに多くも 十日を超ゆべからざるに、水陸 三十一日を要せしと云うは甚だ多きに過ぎたり。

 若しも魏国の天子が使者の採用せし里程の「標準」が「魏志」に記すが如き「短少」なるを知りたらんには、いかでか此の如き不合理の報告を信ずべけんや。使者が此の如き「虚偽の報告」を呈して恩賞に預らんこと思いもよらず、必ずや「虚妄」を語るの故を以て厳責を蒙るべきなり。

 然れども、若しも使者が当初より故意に此沿道の「里数・日数」を誇張せしものとすれば、決してさる矛盾を有せざるなり。何となれば、後漢「建武の銅尺」にて 一千三百余里は大約我が 百四十里に当れば、之を行くに 三十一日を要せしとするもまた必ずしも怪まるべきにあらざればなり。

 またさらに「倭人伝」が帯方郡より邪馬臺国に至る沿道紀行の体裁を視るに、帯方郡より狗邪韓国に至るまでは単に「里数」を挙げ、対馬・一支・末盧・伊都・不彌に於いて「里数」の外に「戸数」および「官名」を挙げたるに、投馬・邪馬臺に於いては「戸数・官名」を記せるは上記諸国の条に於けるが如くなれども、此処に限り「里数」の代りに「日数」を挙げたり。

 凡そ漢土の「紀行文」を見るに「日数」のみを挙げたる場合には、多く「里数」を省けり。是れ蓋し正確なる「里数」を知ること能はざるが故なり。然るに「倭人伝」に於いては帯方郡より邪馬臺に至る里程は 一万二千余里と計上し、而して帯方より不彌国までは 一万七百余里と知られたれば、かの 一万二千余里よりこの 一万七百余里を差し引きて得たる 一千三百余里が即ち不彌国より邪馬臺国に至る里程なるは、当時魏の使者が必ず熟知せる事なり。然るに不彌国より投馬国に至る行程と、投馬国より邪馬臺国に至る行程とに於いてのみ「日数」を記して「里数」を挙げず。

 論者或は云わん。此の 二国は帯方郡より絶遠の地に位するが故に、此等諸国相互の距離に就きて明確なる知識を有せざりしが故ならんと。然れども伝中には、投馬・邪馬臺 二国に於ても他の諸国の如くに「官名・戸数」を記したるのみならず帯方郡より邪馬臺に至る総里数をも記したる程なれば、不彌より投馬、投馬より邪馬臺に至る距離が計算せられざる「理」あるべからず。

 但し、此紀行が実際を誠実に敍したるものとすれば「里数」の代りに「日数」を挙げたるまでなりと解し去るべきなれども、若しも此行程が「故意に誇張せられしもの」とすれば、不彌国より以下邪馬臺国に至る行程を示すに「里数」の代りに「日数」を用いたるは、大に「要意苦心の存する所」ならざるべからず。

 伝によれば帯方郡より邪馬臺国に至る道程を 一万二千余里となす。試に此里数を虚心平気に考えんか。如何に東国の地理に暗き魏人と雖も、其里数の多大なるに疑惑の念を起すべし。是に於てか此報告を作りし者は、務めて此疑念を杜絶する道を講ずる必要あり。故に使者は此道程の計算に誤りなきを證せんと欲し、不彌国より邪馬臺国までは日数を明載し、またそれと共に此間の距離が 一千三百余里なることを間接に現わし、従って 一日の行程平均は我が 四、五里なりしことを暗示せり。

 若しも此の如くに「倭人伝」の行程を解釈するときは、不彌国より邪馬臺国に至るに「日数」にて 三十一日、「里数」にて 一千三百余里と計上するも、余輩が邪馬臺国を肥後の内に置く結論と牴触せざるを悟るべし。

 今日に伝われる「魏志 ― 倭人伝」によれば、不彌国より投馬国まで水行 二十日、投馬国より邪馬臺国まで水行 十日陸行 一月とあり。若し此明文の如くんば不彌国より邪馬臺国に至る 一千三百余里を行くに 六十一日を要し、一日進行の道程は平均我が 二里ないし 二里半となるべし。「虚偽の報告」を作るに苦心せし魏の使者が、何の為にか此の如き「見やすき破綻」を示して自ら恥辱を招く愚をなさんや。

 さらに思うに、不彌国より水行 三十日の道程に於いてすら使者が寄泊せし投馬国の名を挙げたるに、邪馬臺に至る陸行 一月の沿道に於いて 一国の名称をだに記さざるは「理」に於て然るべからず。余輩は此等の理由によりて「魏志」に 一月とあるは 一日の誤写なりと云う先輩の意見に贊同す。

 以上、地理上の考證によりて女王の都せし邪馬臺国は「肥後の国内」にありて、其領土は「九州の北半」に亙りたりと思わるるが故に、之と対抗して而も之を敗北せしめたる狗奴国も亦決して小国にあらざりしなり。狗奴国の所在および其版図の区域に就きては「倭人伝」に明記する所なければ之を精細に述ぶること能はざれども、此国が女王国の「敵国」にして「九州の南部」を占領したる形勢より之を判ずるに、蓋し「国史」に伝われる「熊襲」の如き地位を有せるものならん。而して女王の名 “卑彌呼” および狗奴国の名 “卑彌弓呼” はまた此 二王の九州に於ける「大君主」にして、決して 一小地方に割據せる酋長にあらざりしを示すものなり。



 女王卑彌呼の「名義」に就いては古来種々の解釈ありて未だ 一定せざるが如し。松下見林は其著『異稱日本傳』卷上に於いて、“卑彌呼者 神功皇后御名 氣長足姫尊故 訛云然” と説かれたれば、氏は卑彌呼(ヒメコ)を “姫尊” の「転訛」と見たるなり。然るに 本居宣長は此解釈に従わずしてさらに之を “姫児(ヒメゴ)” の「対訳」と説けり。而して此解釈の当を得ざることは 那珂氏の『外交繹史』卷二八「魏志倭人傳」に精わしく論ぜられたれば、下にその 一節を引用すべし。
 

卑彌呼ハ、熊曾ノ「女酋」ノ名ナリ。

『馭戎慨言』ニ、“一女子云々とは、まさしく 息長帶姫尊の御事を 三韓などより、ひかことまじりに傳へ聞奉りてかけるもの也。卑彌呼は、姫兒(ヒメゴ)と申す事にて、「神代卷」に 火之戸幡姫兒(ヒノトハタヒメゴ)、千々姫(チチヒメ)命、また 萬幡姫兒(ヨロヅハタヒメコ)、玉依姫(タマヨリヒメ)命 などある姫兒に同じ。比彌(ヒミ)を姫といへる例も古きふみに見えたり。さればこそたふとみて、御國人のつねにかく申せしを、韓人(カラビト)などの聞て傳へしを、御名と心得しなるべし” 。

『中外經緯傳』モコノ説ニ從ヒ、“姫と卑彌と通はし云へるも、古言なり。『釋日本紀』に引れたる「上宮紀」に、皇女たちの中に、某比賣と申せる中に、大中比彌、田宮中比彌、阿那爾比彌、布利比彌命、また「上宮聖徳法王帝説」の中に載たる古文に、吉多斯比彌乃彌己等、加斯支移比彌乃彌己等など、なほあり。「神名式」阿波國に、波爾移麻比彌神社とも見えたり。今按るに、當時皇后よろづまつりごちておはしましけれど、實には、おのづから應神天皇の御世なれば、しかすがに皇后の御事を須賣良美古登(スメラミコト)と申すべきにあらず。故別に崇めて比味呼(ヒミコ)と申奉れるを、女子の天皇にておはす御名と心得て、然は記せるものなりけり” トアリ。

サレドモ、『古史斷』第三十七段ニ、“記傳に「神代紀」の一言どもを引きて、栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)兒(ミコ)、萬幡姫(ヨロヅハタヒメ)命、火之戸幡姫(ヒノトハタヒメ)兒(ミコ)、千々姫(チヂヒメ)命など有を、姫兒(ヒメゴ)と訓(ヨミ)をつづけて「一ツ名」とせられ、また高皇産靈尊兒萬幡姫(ヨロヅハタヒメ)兒(ミコ)玉依姫(タマヨリヒメ)命と書連(カキツヅ)けたるを、萬幡姫(ヨロヅハタヒメ)兒(ミコ)、玉依姫(タマヨリヒメ)命と訓て、豐秋津師比賣(トヨアキツシヒメ)命の亦名とせられ、『馭戎慨言』にも云々と云れしは違へり” ト云ヘルハ、實ニ然ル事ニテ、姫兒(ヒメゴ)ト云フ稱ハ、物ニ見エタルコト無ケレバ、「卑彌呼」ヲ皇后ノ「尊稱」トスルハ、拠ナキ説ナリ。


 吉田博士 ※12 は其旧作『日韓古史斷』第三編に於いて 卑彌呼は「日子」(ひのみこ)の義「姫子」にあらずと云いて、亦 本居氏の説に贊成を表せざりき。

 余輩の考うる所によれば「卑彌呼」とは女王の「尊称」にて其実名にあらず。その義は既に 松下氏の説けるが如く「姫尊」即「 hime – mikoto 」の「転訛」ならん。漢人は常に外国の名称の長きを厭いて之を省略する風あり。故にヒメミコトの「メミ= memi 」二音の相重なるを略して単に之を「メ= me 」とし、また「ミコト」の「ト」を省きて 卑彌呼(ヒメコ)と書けるなり。此解釈の正を失わざるは、狗奴国王の名「卑彌弓呼」の解釈と相待ちて之を悟るべし。

 卑彌弓呼の「名義」に就きて詳細なる説明を与えたるものを『日韓古史斷』となす。同書第三編 第二章「筑紫の条」に曰く …
 

狗奴國は男王あり “卑彌弓呼素” と曰ふ。『後漢書』に云ふ、女王國より東、渡海千餘里、狗奴國に至る、皆倭種なりと雖も女王に屬せずと。「魏志」に云ふ、奴國の南に狗奴國ありと。或は曰ふ、狗奴は河野にして伊豫國なりと、恐らくは當に然るべし(注略)。

按ずるに伊豫は西南の舊國にして「大族」あり、河野と云ふ、其の初久努(クヌ)に作る、其の祖 子致(コチ)と云ふ、「魏志」に謂はゆる官 “狗古智卑狗” と曰ふ者は、即ち 子致彦(コチヒコ)や。子致また 越智(ヲチ)と云ふ(注略)。而てまた王あり “卑彌弓呼素” と爲すはまた “日子(ヒノミコ)” の稱を冠れり。伊豫國造の皇別に出で(注略)、當時來り其の國を鎭めたまへるを謂ふに似たり。

また其の名、女王を “壹與” と曰ひ男王を “呼素” と云ふは、二國講和して、古俗盟約「易名」の事をなし、伊豫(壹與)の稱を女王に附し、襲(小襲)にや、また『古事記傳』征韓起源等に因れば、襲の語源は「ヲソ」より出づといへり、「コ」「ヲ」は古言多く相通せり、或は「熊襲」の徒、魏人に告ぐるに殊に卑めて「小襲」と呼びしにやの稱を、男王に附せしに因るや。

 吉田博士は狗奴国王の名を「卑彌弓呼」と云わずして「卑彌弓呼素」と読み、此名の中「卑彌弓」は「卑彌呼」と同じく “日子(ヒノミコ)” の「対訳」、「呼素」は “襲(オソ)” の「音訳」なりと見られたり。博士が狗奴国王の名を「卑彌弓呼素」となししは、倭人伝の文に “倭女王卑彌呼 與 狗奴國男王卑彌弓呼 素不和” とある「副詞」の「素」を、男王名称の末尾に連結せしめたるが故なり。「呼」の今音は「 hu 」なれば「呼素」は「 hu – so 」と音し、襲( o – so )と音声相近けれども、同文「卑彌呼」の名に於いて「呼」は正しく「 ko 」と響かしたるを見れば、「卑彌弓呼」の名に於いて之を「 o 」と音せしむるは如何にや。

 菅氏は『漢籍倭人考』に於いて亦此王の「名義」を説いて曰く …
 

「卑彌弓呼」ハ、「卑彌呼」ニ「弓」ノ 一字ヲ加ヘタルマデナル上ニ、「卑彌」ハ「姫」ニテ女子ノ稱ナレバ、男子ニサル名ノアルベクモ思ハレズ、サラバ字ノ誤ハモトヨリナガラ、字ノ誤リハヒトリ此ノミナラズ、往々ニアリ狗奴國ノ所在サヘ詳ナラネバ、思ヒヨスベキスベモナシ、サレド試ニイハバ、「卑彌弓呼」ハモト「卑呼彌呼」トアリケンヲ、「卑」ノ下ノ「呼」ヲ脱シ、「彌」ノ偏ヲ誤リテ、再ビ「彌」ノ下ニ「弓」ト書シタルモノナラン、「卑呼彌呼」ハ「彦御子」ニテ、其ハ開化天皇皇子「彦坐王(ヒコマスミコ)」ヲ訛リテ申シシナリ。


 余輩の考うる所によれば、「卑彌弓呼」は「卑弓彌呼」の倒置にて「 hiko – mikoto 」の省略なり。されば「卑弓彌呼」は「卑彌呼」と同じく狗奴国王の実名にあらずしてその「尊称」なり。「魏志」の文中にも女王「卑彌呼」に対して男王「卑彌弓呼」と記したれば、当時九州の倭人は邪馬臺国王は女子なりしが故に之を「尊称」して「卑彌呼」即ち「姫尊」といい、狗奴国王は男子なりしが故に之を「卑弓彌呼」即ち「彦尊」といいしなり。「ヒコ=ヒメ」の「ヒ」は「ムスコ=ムスメ」の「ムス」の如く 一個の「美称」なれば、必ずしも之を「日」の義に解くべきにあらず。

「魏志 ― 倭人伝」の中に種々の官名(人名)を挙げたれども、之に「ミコト」の「尊称」を附せざるは何れも 一地方の酋長にして、女王或は男王に隷属する臣下なりしが故なるべく、之に反して倭女王・狗奴男王が「ミコト」と称せられしは、此 二王が九州に於ける 二大勢力たりし 一證と見るべし。



 

 太古九州全島が 二大国に分裂せしことは、我が開闢史によりてもその形勢を窺い得べきが如し。余輩は隼人等が「祖先」として知られたる 火闌降(ホノスソリノ)命と其弟 彦火火出見尊とが、「鉤針」の故を以て争いし 一条の物語を此「二大勢力の争闘」を「神話」に化し去りしものと思惟す。

 蓋し 彦火火出見尊は「九州北部の勢力」を表わし、火闌降命は「南部の勢力」即ち隼人国を表はししなり。而して弟尊が兄命を苦めて遂に之を降服せしめたる方法は 一種特別にして、而も「地方的性質」を帯びるものなるが故に、余輩は下に『古事記』の 一節を引用すべし。
 

是以 備如海神之教言 與其鉤 故自爾以後 稍兪貧

更起荒心迫來 將攻之時 出鹽盈珠而令溺

其愁請者 出鹽乾珠而救 如此令惚苦之時 稽首白 僕者自今以後 爲汝命之晝夜守護人而仕奉

故至今 其溺時之種種之態 不絶仕奉也


 九州の西海岸は潮汐満乾の差甚しきを以て有名なれば、上に記せる「鹽盈珠・鹽乾珠」の伝説は此「自然的現象」に原因して起れるものならん。故に「神典」に見えたる 彦火火出見尊と 火闌降命との争闘は「魏志」によりて伝われる、倭女王と狗奴男王との争闘に類せる「政治的状態」の反映と見做すべきものなり。

「魏志」の記す所によれば邪馬臺国は本は男子を以て王となししが、其後国中混乱して相攻伐し遂に 一女子を立てて王位に即かしむ。是を「卑彌呼」となす。此女王登位の年代は詳かならざれども、その始めて魏国に使者を遣わしたるは景初 二年即ち西暦 二百三十八年なり。而して正始 八年即ち西暦 二百四十七年には女王、狗奴国の男王と戦闘して其乱中に没したれば、女王は蓋し後漢の末葉より此時まで九州の北部を統治せしなり。女王死して後国中また乱れしが、其宗女「壹與」なる 一小女を擁立するに及んで国乱定りぬ。

「卑彌呼」の仇敵狗奴国の男王「卑弓彌呼」は何年に即位し何年まで在位せしか「魏志」に伝わらざれば、また之を知るに由なし。然れども正始 八年に此王は女王「卑彌呼」と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者「壹與」の代に及んでも依然として九州の南部に據りて暴威を逞しうせしに相違なし。

 九州に於いて此の如く南北の 二大国が対立して互に雌雄を争いし時に方りて、此より以東の国々は果して如何なる状態にてありしか「漢史」の方面よりは其の消息を窺うに由なし。若しも当時大和の朝廷が九州地方と密接なる関係にてありたらんには、「魏志 ― 倭人伝」に之を逸すべき筈なし。然るに伝中に女王国以東に関する事を載する甚だ漠然たるを思へば、当時「皇朝」の威力は未だ九州地方に及ばざりしなり。

 那珂氏の「上世年紀考」(「史學雜誌」第八編 第一二號 )によれば、崇神天皇の崩年「戊寅」は魏帝 曹髦の甘露 三年即ち西暦 258年に当り、仲哀天皇の崩年「壬戌」は、晋の 穆帝の永和 十一年即ち西暦 355年に当る。然れば倭女王「卑彌呼」および其嗣者「壹與」は、崇神天皇と同時代の人たりしなし。此年紀推定の「正確」なることは、之によりて「日韓の古史」がよく解説し得らるるにても證すべし。

「国史」を案ずるに、皇化の九州地方に加わりしは 崇神天皇以後にあり。此帝の時「四道将軍」を四方に派遣せられけるが、その中「西道」に向いしは 吉備津彦なり。此将軍は專ら中国を経略せしにて九州に渡りしとは思われず。然るに『國造本紀』に此朝に 十一国の「国造」を定め給へるが中に、“火國造 瑞籬朝御世 大分國造同祖志貴多奈彦命兒建男祖ノ命 定賜國造 阿蘇國造 瑞籬朝御世 火國造同祖神八井耳命孫速瓶玉命 定賜國造” と見ゆれば「火国造」は肥後国の 一部を賜わり、「阿蘇国造」は肥後国の阿蘇郡を賜わりしに聞ゆれども、崇神天皇の頃九州の北部、殊に肥後は「卑彌呼女王の本地」にして其没後に至りても尚お「壹與の領土」なれば、瑞籬朝御世に此処に「国造」を置かれしこと事実と思われず。されば 那珂氏もこの「国造」設置に就きては疑を懷かれ …
 

「景行紀」ニ “吉備津彦遣西道” トアル西道ハ、イヅコマデヲ云ヘルカハ詳(サダカ)ナラネドモ、『古事記』ニ “大吉備津日子命與 若建吉備津日子命 言向和(コトムケヤハス)吉備國” トアリテ、二皇子ノ平ゲ給ヒシハ、今ノ中國ノ地ナレバ、西方ノ經略ハ未ダ筑紫ノ島マデハ及バザルベク思ハルレバ、此ノ「二國造」ノ事モ、後ヲ前ニメグラシテ、祖先ヲ擧ゲテ云ヘルニハ非ザルカ。


… と説かれたるは「極めて理」なり。然るに其後、景行の朝に天皇親ら豊・火・日向・筑紫を巡狩せられ、次で 日本武尊をして「熊襲」を討たしめ給ひ、また此朝の時に「葦北国造」などをも置かれたりしを以て之を観れば、九州の北半は是時より漸く王化に潤い始めたるなり。

 成務天皇の時に至りて、九州に筑志・筑志ノ米田(メタ)・豊・国前・比多・松津・末羅・天草・葛津の「国造」を定め給いしこと『國造本紀』に見えたれば、此天皇の時となりては往昔「卑彌呼の領土」たりし処は、悉く「大和朝廷」の命令を奉ずることとなれりしなり。

 此の如く「景行の朝」より「成務の朝」に亙りて九州の北部が容易に王化になびきしは、固より列聖御稜威の然らしむる所なるべしと雖も、而もまた此処に拠れる女王国の勢力が衰頽に赴きしことその原因たらずんばあらず。而して「女王国の衰弱せし原因」に 二あり。

 一は、此国が卑彌呼女王の時に南方の敵国狗奴国と戦って敗北を取りしより以来、其勢力また昔日の如くならざりし事。

 一は、西晋末より「五胡」中国に侵寇したる結果として、女王国の依頼せし楽浪・帯方の 二郡滅亡せしこと、即ち是なり。

 若しも此の如き「形勢の変動」無からんには、如何に 景行天皇および 日本武尊が勇武にましますも、此く容易に九州の北部を経略平定すること或は能はざりしならん。

 九州の北部既に「皇朝」の命を奉ずるに及んでも、南部の「熊襲」即ち狗奴国は依然として王師に反抗して尚お「独立の地位」を保ちしなり。然れども 仲哀・神功の代となりては皇室の威力は東海・北陸・四国・中国及び九州の北半に及びしかば、流石の「熊襲」も其壓力に堪えずして降服するの已なきに至れり。

 かくて「大八洲ノ国」は悉く討平せられて皇室の隆なること前後に比びなかりしかば、神功皇后は全国の兵力を傾けて「三韓」を征伐し給へり。而して韓国当時の状態を顧るに、楽浪・帯方 二郡の滅亡するや高勾麗北方より南下して其故地を略し、さらに進んで「三韓」を併呑せんず勢なり。

 是に於いて、従来緩慢なりし「韓族」ははじめて強固なる「国家」を組織する必要を感ずると同時に、尚おその中には東方倭国の応援を得て「自国の独立」を維持せんと図るものありき。神功皇后の「征韓」は此大勢に駕せしかば容易に效果を收めたるものなるべく、必ずしも之を皇国の勢力強大なりしのみに帰すべからず。



 

 以上女王国の興亡および其の滅亡が皇威の発展に好箇の機会を与えたるを敍したれば、再び本論に立ち帰り卑彌呼女王の「人物」に就いて論ずる所あらんとす。已に前にも述べたるが如く邪馬臺国には本もと男王ありしが、其後国中に混乱を生じ遂に卑彌呼を奉じて王となせり。卑彌呼死して国また乱れしが、十三歳の少女壹與を奉戴するに及んで国乱遂に定りぬ。

 此の如く邪馬臺国が二代引き続きて女王を奉戴せしは甚だ奇怪に思われんが、景行の朝より神功の代に至るまで九州地方に「女酋」の多かりしを見れば、邪馬臺国が女王を「君主」と仰ぎしも亦怪むに足らざるべし。那珂博士は其『外交繹史』第二八に『書紀』『風土記』に見たる「女酋」の例を挙げたれば、下に之を引用すべし。

 筑紫ノ島ニハ女酋ヲ尊ブ習俗ノ有リシト見エテ、「景行紀」ニ云 ❝到周芳ノ娑麼(サバ)時 天皇南望之 詔群卿曰 於南方 煙氣多起 必賊將在 則留之 先遣多ノ臣ノ祖武諸木 國前ノ臣ノ祖兎名手 物部ノ君ノ祖夏花 令察其状 爰有女人曰神夏磯媛 其徒衆甚多 一國之魁帥也 聆天皇之使者至 則拔磯津山賢木 以上枝挂八握劍 中枝挂八咫鏡 下枝挂八尺瓊 亦素幡樹于船舳 參向而啓之曰 願無下兵 我之屬類 必不有違者 今將歸徳矣 云々❞ 。周芳娑麼(サバ)ハ、今ノ周防國佐波郡ナリ。一國之魁帥也トハ、筑紫國ノ中ニテ、一地ノ酋長タルヲ云フ。磯津山ハ、河田羆氏※ 13 ノ『西征地理考』ニ、❝今ノ企救郡貫山、一名シハツ山是也❞ トアリ。

 又 ❝到速見邑 有女人曰速津媛 爲一處之長 其聞天皇車駕 而自奉迎之 云々❞ 。速見邑ハ、今ノ豐後國速見郡ナリ。速津媛ノ事ハ、『豐後國風土記』速見郡ノ條ニモ ❝昔者纒向日代宮御宇天皇 欲誅玖磨贈 幸於筑紫 從周防國佐婆津發船而渡 泊於海部郡宮浦時 於此村有女人曰速津媛 爲其處之長 即聞天皇行幸 親自奉迎 云々 因斯名曰速津媛國 後人改曰速見郡❞ トアリ。

 「景行紀」ニ又 ❝天皇將向京 以巡狩筑紫國 始到夷守 是時於石瀬河邊 人衆聚集 於是天皇遙望之 詔左右曰 其集者何人也 若賊乎 乃遣兄夷守弟夷守二人令覩 乃弟夷守還來而諮之曰 諸縣君泉媛 依献大御食而其族會之❞ 、夷守ハ、今ノ日向國西諸縣郡小林郷ナリ。❝到八女縣 則越藤山 以南望粟岬 詔之曰 其山峯岫重疊 且美麗之甚 若神有其山乎 時水沼縣主猨大海奏言 有女神名曰八女津媛 常居山中 故八女國之名 由此而起也❞ 、八女縣ハ今ノ筑後國上妻下妻二郡ナリ。藤山ハ、今ノ御前嶽ト云ヒテ、御井郡ト下妻郡トノ界ニアリ、水沼縣ハ、今ノ筑後國三潴郡ナリ。

 『豐後風土記』日田郡ノ條ニ ❝昔者纒向日代宮御宇大足彦天皇 征伐球磨贈於凱旋之時 發筑後國生葉行宮 幸於此郡 有神名曰津媛 化而爲人 參迎辨申國消息 因斯曰久津媛之郡 今謂日田郡者訛也❞ 、上ノ津媛ノ上ニ、久字落チタルカ。生葉ハ、「景行紀」ニ ❝的邑(イクハムラ)❞ トアリ、今ノ生葉郡ナリ。日田郡、今モ然云フ。

 『肥前國風土記』松浦郡賀周(カス)里ノ條ニ ❝昔者此里 有土蜘蛛名曰海松橿(ミルカシ)媛 纒向日代宮御宇天皇巡國之時 遣陪從(ミトモ)大屋田子(オホヤタコ)誅滅 云々❞ 、杵島郡孃子(ハヽコ)山ノ條ニ ❝同天皇行幸之時 土蜘蛛八十女(ヤソメ) 又有此山頂 常捍皇命 不肯(アヘ)降服(マツロヒ) 於茲遣兵掩滅 因曰孃子山❞ 、彼杵郡浮穴郷ノ條ニ ❝同天皇在宇佐濱(ウサハマ)行宮 詔神代(カシロ)直曰 云々 即勅直遣此村 有土蜘蛛名曰浮穴沫(ウキナワ)媛 捍皇命甚無禮 即誅之 因曰浮穴郷❞ 、「神功紀」ニ ❝轉至山門縣 則誅田油津媛 時田油津媛兄夏羽 興軍而迎來 然聞其妹被誅而逃之❞ 、山門縣ハ、今ノ筑後國山門郡ナリ。ナド見エ、又『豐後風土記』日田郡五馬山ニ、土蜘蛛五馬媛、『肥前風土記』佐嘉ノ郡ニ、土蜘蛛大山田女狹山田女ナドモアリ。

 此等の例證によるときは、景行の朝より神功の代に亙りて九州地方に女子にして「君長」たりしもの十二名あり。尚お之に卑彌呼および壹與を加うるときは十四名の多きに及ぶ。今日より之を見れば寧ろ奇異の感なくんばあらず。是れ固より当時の風習なるべけれども、何が故に斯る習が行われて此の如く多数の「女酋」を輩出せしめたるか、これ大に考究すべき問題なり。那珂氏は之に説明を与えて …

 此ノ風俗ハ、イカナル原因ヨリ生ジタルカハ知ルベカラザレドモ、卑彌呼壹與等ガ、國人ニ畏服セラレタルハ、其ノ英略アルガ爲ノミニハアラデ、此ノ風俗アリシニモ由レルナルベシ。然ラズバ、又卑彌呼ノ英略ヲ以テ、國人ヲ服セシヨリシテ、人民自ラ「女酋」ヲ重ンズル心ヲ生ジ、遂ニ筑紫ノ各地ニ、「女酋」ノ興起スルニ至リシヤモ知ルベカラズ。

… と説かれ、また三宅博士は別に説をなして …

 凡そ太古の家系は母姓に因れり。我が舊辭の時代はかかる原始社會を去ること遠しと雖も、猶其の遺風を存したればにや『古事記』往々女子を擧げて氏族の祖と爲せり。また我が舊辭時代には著名なる女子多く各處の酋長に女子少からず、是れ亦女系を主とせる古俗と相關係せるならん。

… と云はれたり。

 此二家の所説は果して我が国の古俗に「女酋」の多かりし原因を解き得たるものなりや否や。請う試に「魏志」が卑彌呼の人物に就きて記す所を見よ。

乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人 給飮食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衞

 此文によりて卑彌呼の人となりを察するに、軍国の政務を親ら裁断する俗界に於ける英略勇武の君主と見るよりは、寧ろ深殿に引き籠りて祭祀を事とし神意を奉じて民心を收攬せる宗教的君主と見らるるなり。是れ余輩が那珂氏の説に従うこと能はざる所以なり。

 また三宅博士の云わるるが如く我国の太古にも「母系」を重んじたる形跡なきにあらねど、卑彌呼時代には「夫婦の制」が判然と確立せしことは「魏志」の文面よりも、また我が開闢史の上よりも知らるるが故に、余輩は博士の意見に賛成すること能はず。且つ「母系」を重ずる習慣より之を論ずれば、国民の尊敬を受くる女王は母たる資格を要すべきは勿論なるに、卑彌呼が年長じて夫壻なく一生を処女にて送りしは如何に解くべきか。

 我が国の古俗にては「人事」を汚穢とするが故に、神祇に奉侍する婦人は大概人に嫁せざるを常とす。人の妻女は勿論、一たび人に姦せられたる女子が「斉宮」たる資格を失うことは能く人の知る所なり。因て案ずるに、卑彌呼が年長じても夫壻なきは神祇に奉侍する自己の地位の然らしむる所にして、他の故ありしにあらず。

 されば卑彌呼が女王として推戴せられしは其資性の英明勇武なるにあらずして、神祇に奉侍し其意を伝達するに適したる性質を具備せしが故なり。また卑彌呼の嗣者壹與が十三歳にして女王となりしは、必しも之を卑彌呼の宗女たりし門閥上の関係にのみ因れるものと見るべからず。之を皇朝の例に鑑るに二、三歳の皇女にして「斉王」となれるものありき。壹與が十三歳にして王統を継ぎしも必ず此宗教的理由に因るものと解せらる。

 論者若し我が国の古俗に「女酋」多きの故を以て「女尊男卑」は我が国上代の風俗なりしと推断せば、大なる謬見なり。「魏志」倭人伝に …

其俗國 大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌

… とあるによりても、我が古俗にて婦女は貞節を守り其夫に従順なりしを察すべし。また神典に ❝伊邪那岐 伊邪那美❞ と書き ❝沫那藝 沫那美❞ と記すが如く、常に男神を前に挙げて女神を後にするを見ても「男尊女卑」が我が国の古俗なりしを悟るべく、殊に諾册二神が天の御柱を廻りて「美斗の目合を」せさせ給う処に …

伊耶那美命(イザナミノミコト) 先言阿那迩夜志(アナニヤシ)愛袁登古(エヲトコ)袁(ヲトノリタマヒ) 後伊耶那岐命(イザナキノミコト) 言阿那迩夜志(アナニヤシ)愛袁登賣(エヲトメ)袁(ヲトノリタマヒ) 各言竟之後 告其妹曰 女人先言不良(ヲミナヲトコニサキダチテフサハズトノリタマヒキ)

… とあるは、明かに「男尊女卑」の国俗を證するものなり。

 此の如く「男尊女卑」は我が古俗なりしにも拘らず、女人にして「君長」となれるもの多かりしは甚だ奇異に聞ゆれども、其理由の宗教的関係に存するを悟らば疑団は忽ち氷解せらるべし。我が古俗に於いては女性は一般に男性に劣れりと雖も、女性の中に特に神祇の憑依する所となりて、其意思を伝達するに適する資質を有する者あり。此の如き婦人はこの理由によりて国民の尊崇を受くるに至ること、敬神の念深き上代にありては決して怪むべきにあらず。卑彌呼=壹與等が九州北半の大君主と仰がれしも全く此の理由によるものにて、必しも之を以て此等女王の資性勇武なりしのみに帰すべからず。

 此の如く倭女王卑彌呼の性質を論究したる後に於いて、余輩ははじめて我が神典中の一大疑問を解釈し得べしと信ず。所謂一大疑問とは何ぞや。曰わく皇祖天照大御神が女性の御身を以て高天ヶ原に君臨せさせ給う事是なり。神典を通読するに「男尊女卑」の精神は全篇に偏満するにも拘らず、大御神が女神を以て天上の君主と仰がれ給うは一見甚しき矛盾なり。古来の学者此矛盾を解かんと務めて遂に其要を得ず。是に於てか、大御神は男神にして女神にましまさずとまで思惟する者あるに至る。然れどもこれ畢竟我が国の古俗を知らざるよりの謬見なり。

 凡て「神話伝説」は国民の理想を述べたるものにて、当時の社会の精神風俗等は悉く其の中に包含せらるるものなるが故に、皇祖発祥の地たる九州に於いて上古卑彌呼をはじめとし女子を以て「君長」たりしもの其数を知らずとせば、大御神が女神として天上に照臨し給うも亦何の怪むべきことかこれあらんや。神典の中「天安河の条」はよく大御神の御資格を表わすと共に、また当時の社会の状態を示すを以て下にその一段を引用せん。

爾 速須佐之男命 白于天照大御神 我心淸明 故我所生子 得手弱女 因此言者 自我勝云而 於勝 佐備(此二字以音)
離天照大御神之營田之 阿(此阿字以音) 埋其溝 亦其於聞看大嘗之殿 屎 麻理(此二字以音)散
故 雖然爲 天照大御神者 登賀米受而告 如屎 醉而吐散 登許曾(此三字以音) 我那勢之命爲 如此
又 離田之阿■埋溝者 地矣 阿多良斯登許曾(自阿以下七字以音) 我那勢之命爲 如此
登(此一字以音)詔雖直 猶其惡態不止而轉
天照大御神 坐忌服屋而 令織神御衣之時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所墮入時 天服織女見驚而 於梭衝陰上而死(訓陰上云富登)
故 於是 天照大御神見畏 開天石屋戸而 刺 許母理(此三字以音)坐也
爾 高天原皆暗 葦原中國悉闇 因此而常夜往
於是 萬神之聲者 狹蠅 那須(此二字以音)滿 萬妖悉發
是以 八百萬神 於天安之河原 神集集(訓集云都度比)而 (中略) 天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲𦆅天之眞拆而 手草結天香山之小竹(訓小竹云佐佐)葉而 於天之石屋戸伏 汙氣(此二字以音) 蹈 登杼呂許志(此五字以音) 爲神懸而 掛出胸乳 裳緖忍垂於番登也
爾高天原動而 八百萬神共咲
天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲鬘天之眞拆而 手草結天香山之小竹葉而(訓小竹云佐佐) 於天之石屋戸伏汙氣(此二字以音)蹈登杼呂許志(此五字以音) 爲神懸而 掛出胸乳 裳緖忍垂於番登也
爾 高天原動而 八百萬神共咲
於是 天照大御神 以爲怪 細開天石屋戸而 內告者 因吾隱坐而 以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣 何由以 天宇受賣者爲樂 亦八百萬神諸咲

 此文を以て之を観れば、大御神は高天ヶ原に於いて至高の神にましませど敬神の念深くして祭祀を重じ、御自らまた天神を祀らせ給えり。故に「新嘗」の料に備えんが為に営田(ミツクタ)にて稻を作らしめ給い、また神御衣(カミノミソ)を造らんが為に、天衣織女(アメノミソオリメ)をして忌服屋(イミハタヤ)にて之を織らしめ給えり。而して大御神が天神に奉侍せしさまは、宛も後世倭姫命が大御神に奉侍せしと毫も異なかりしなり。

「倭姫命世紀」は後世の作に係れどその「神衣祭」の由来を記せる一段は上古の制度を伝えたるものにて、大御神が天神に奉侍せしさまも、また卑彌呼などが神祇を祀りしさまも、之によりて其一斑を窺い得べければ下の一節を拔載せん。

垂仁天皇廿五年 丙辰春三月 伊勢百船度會國 玉綴伊蘇國 入座
即建神服織社 令織太神之御服 麻績機殿神服社 是也
然後 隨神誨造神籬取 丁巳年冬十月甲子 奉遷於五十鈴川上之 後覓清麗膏地 和妙之機殿 同興 于五十鈴川上側 令倭姫命居焉
于時 天棚機姫神 令織太神和妙御衣給倍利 是名号磯宮矣
爰卷向日代宮御宇 日本建尊 比々羅木以八尋鋒根 奉獻皇太神宮
即倭姫皇女 彼鋒根納緋嚢 皇太神貴財爲 八尋機殿隱状爲 皇太神御靈奉崇祭
令天棚機姫神裔 八千々姫命 毎年夏四月秋九月織神服 以供神明 故曰神衣祭也

 余輩は此等の記録に徴して、大御神が敬神の念甚深にして祖宗に孝順なるの故を以て天上に君臨し万神を統御し給えるを知ると共に、卑彌呼が九州に於いて一国の尊崇を受けしも全く同一の理由に因るものなるを信ず。但し、卑彌呼は下界の小君長に過ぎざりしかども、大御神は天上まします至高至尊の神にして日輪を「玉体」となし、長えに下土に照臨し給へり。余輩は大御神の風姿を拝み奉りて功徳の盛なるを欽慕すると共に、また「太陽崇拝」の我が国民の根本思想たりしを思わずんばあらず。

 つらつら神典の文を案ずるに、大御神は素戔嗚尊の荒らき振舞を怒りて「天ノ岩戸」に隱れさせ給えり。此時天地暗黒となりて、万神の聲は狹蠅の如く鳴りさやぎ万妖悉く発りぬ。是に於て八百万神達は天安河原に神集いに集いて大御神を岩戸より引出し奉り、次で素戔嗚尊を逐いやらいしかば天地再び照明となれり。

 飜て「魏志」の文を案ずるに、倭女王卑彌呼は狗奴国男王の無体を怒りて長く之と争いしが、其暴力に堪えずして遂に戦中に死せり。是に於て国中大乱となり一時男子を立てて王となししが、国人之に服せず互に争闘して数千余人を殺せり。然るに其後女王の宗女壹與を奉戴するに及んで国中の混乱一時に治れり。

 是は、これ地上に起れる「歴史上の事実」にして、彼は天上に起れる「神典上の事蹟」なれども、その状態の酷似すること何人も之を否認すること能はざるべし。若しも「神話」にして太古の事実を伝えたるものとせば、神典の中に記されたる「天ノ安河の物語」は卑彌呼時代に於けるが如き社会状態の反映と見るを得べきか。

「人代」となりてより以来、皇朝に於いて婦人にしてはじめて国家を統治せられしは神功皇后なり。皇后は巾幗の身を以て遠く海を渡り三韓を伐たせられし程の人なれば資性勇武にましまししは言を俟たざれども、而も世の歴史家が此大功を奏せられしを以て偏に皇后が千軍万馬の間に叱せられし武勳にのみ因るとなせば、そは大なる誤なり。

 余輩を以て之を観れば皇后は武略を以て軍卒の畏敬を受けしよりは、寧ろ神祇に奉侍してその意思を宣伝する「祝官」として民望を收攬せられしが如し。而して如何に皇后が神明の憑託となり、如何に軍民の畏服する所となりしかは、余輩の禿筆を以て之を描出せんは要なし。寧ろ下に載録する『古事記』の本文に就て直接に其眞相を玩索するに如かざるべし。

其太后息長帶日賣命者 當時歸神 故天皇坐筑紫之訶志比宮 將撃熊曾國之時 天皇控御琴 而建内宿禰大臣居於沙庭 請神之命
於是太后歸神 言教覺詔者 西方有國 金銀爲本 目之炎耀種々珍寶 多在其國 吾今歸賜其國
尓天皇答白 登高地見西方者 不見國土 唯有大海 謂爲詐神 而押退御琴 不控默坐
尓其神大忿詔 凡茲天下者 汝非應知國 汝者向一道
於是建内宿禰大臣白 恐我天皇 猶阿蘇婆勢其大御琴(自阿至勢以音)
尓稍取依其御琴 而那摩那摩迩控坐(自那至迩五字以音)
故未幾久而 不聞御琴之音 即擧火見者 既崩訖
尓驚懼而坐殯宮 更取國之大奴佐(奴佐字以音)而種々求 生剥 逆剥 阿離 溝埋 屎戸 上通下通婚 馬婚 牛婚 鷄婚 犬婚之罪類 爲國之大祓 而亦建内宿禰居於沙庭 請神之命
於是教覺之状 具如先日 凡此國者 坐汝命御腹之御子 所知國者也
尓建内宿禰白 恐我大神 坐其神腹之御子 何子歟
答詔 男子也
尓具請之 今如此言教之大神者 欲知其御名
即答詔 是天照大神之御心者 亦底筒男 中筒男 上筒男三柱大神者也(此時其三柱大神之御名者顯也)
今寔思求其國者 於天神地祇亦山神及河海之諸神 悉奉幣帛 我之御魂坐于船上 而云々

 倭女王卑彌呼は如何なる方法を以て国民を統治せしかは、「魏志」に記す所の文辭甚だ簡単にして其の詳なること得て之を知るべからずと雖も、祭祀を以て政治の要道とする一種の神裁政治なりし点に於いては神功皇后に異る所なきを認めずんばあらず。

 故に卑彌呼が ❝事鬼道 能惑衆❞ とあるは神功皇后が「神懸り」して神意を宣伝する類を指ししなるべく、❝年已長大 無夫壻❞ とあるは「斉王」が常に処女なりし古俗、或神功皇后が仲哀天皇崩去の後寡居せられしが如き風習を云えるなるべく、❝有男弟佐治國❞ 、❝自爲王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人 給飮食傳辭❞ とあるは神功皇后が「神主」となりて神殿に籠らせ給ひ、武内宿禰が沙庭に伏して神命を請うに比すべきものなり。

 而して神功皇后が当時の人民を畏服せしめし所以は皇后としての位置のみにあらず、また皇后自身の威勢のみにあらずして、全く皇后が神明の意思を宣伝する御資格にありしが如し。故に夫君仲哀天皇といえども皇后に由りて宣言せられたる「神命」を奉ぜざるときは、「神怒」にふれて崩去するに至る。之を以て之を観ても、神祇に対するの信仰が如何に当時の人心を支配せしかを窺うに足らん。

 神功皇后が攝政として宏業を建てられしも、卑彌呼が女王として九州に威勢を震いしも均しく皆この関係に由るものなれば、此両者の形跡に於いて類似する所ありしは寧ろ当然の事のみ。『日本書紀』の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも全く此類似を認めたるが故なるべけれど、斯る類似は独り皇后と卑彌呼とに限るべからず。いやしくも当時一方に雄拠して「君主」と仰がれし女王は大概此の性質を具備せしなり。故に余輩はここに、『書紀』が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を断じて本論の結末となす。

 

(明治 43 年 6・7 月、『東亞之光』第 5 卷 第 6・7 號)


1.那珂 通世( 1851 ~ 1908 )
明治期の歴史学者・文学博士
2.菅 政友( 1824 ~ 1897 )
元水戸藩士で維新後は石上(いそのかみ)神宮宮司
3.松下 見林( 1637 ~ 1703 )
江戸時代元禄期の医師・儒者
4.本居 宣長( 1730 ~ 1801 )
江戸後期の国学者,「国学四大人」の一人
5.鶴峯戊申( 1788 ~ 1859 )
豊後臼杵生れの国学者,後に水戸藩士となる
6.近藤 芳樹( 1801 ~ 1880 )
江戸時代 ~ 明治時代の国学者
7.三宅 米吉( 1860 ~ 1929 )
歴史学者,考古学会(現日本考古学会)を創立
8.星野 恒( 1839 ~ 1917 )
歴史学者・漢学者・修史局職員
9.大谷 亮吉( 1875 ~ 1934 )
科学史家,大正6年『伊能忠敬」を刊行
10.栗田 寛( 1835 ~ 1899 )
歴史学者,『大日本史』編纂に参加
11.伊能 忠敬( 1745 ~ 1818 )
元商人で隠居後日本全国を測量し「大日本沿海輿地全図」を作成
12.吉田 東伍( 1864 ~ 1918 )
歴史地理学者,独学で日本史を学ぶ
13.河田 羆( 1842 ~ 1920 )
地理学者,明治政府の地誌編纂事業に尽力


青空文庫:『 倭女王卑彌呼考 』

底本:『白鳥庫吉全集 第一卷 日本上代史研究 上』岩波書店
    1969(昭和 44 )年 12 月 8 日発行
初出:「東亞之光 第五卷第六・七號」
    1910(明治 43 )年 6、7 月

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