風知空知

東インド会社

行政書士開業で良いか否か考察メモ・経済メモ ―― より
2009年 6月 28日 (日) 14:29:18


東インド会社

 高校時代に「東インド会社が世界最初の株式会社」と習った記憶がある。ところが調べてみると「東インド会社」は 一つではなく、イギリス、オランダ、スエーデン、デンマーク、フランスの各国に存在した。

 各国が「東インド会社」を作ったのは、それ以前はアジアで交易会社が乱立し、過当競争に陥っていたのを防ぐためだった。そしてイギリスが「イギリス東インド会社」を最初に創り、アジア地域との貿易を独占する権利を エリザベス 一世から与えられた。当時「インド」とは、ヨーロッパ・地中海沿岸地方以外の地域を指していた。1600年のことである。

 これに驚いたオランダは 1602年に、より大きな資本で「オランダ東インド会社」を創ってイギリスに対抗する。当時はポルトガルとスペインの「黄金時代」で、オランダとイギリスは新しい会社組織に国の力を集結し、ポルトガルスペインの牙城に喰い込んでいく。これらの会社はそれぞれの母国が発行した「特許状」を持ち、貿易の他に「条約」の締結 … 軍隊経営 … 植民地経営などの権利も与えられていた。その点では現在の株式会社とは大いに異なっている。対象地域はアジアである。

 また、株式会社の起源は「オランダ東インド会社」であって、「イギリス東インド会社」ではないようである。

 

イギリス東インド会社

概 要

 自前の従業員を持っており、主業務は貿易で本社はロンドン。当初の株主は 125人で、資本金 7万2千ポンドであった。

 インドネシアでの香辛料 (当時の主要貿易品目) 貿易をするためにジャワ島やインドに拠点を置き、マレー半島やタイ、日本の平戸、台湾にも商館を設けたが、「オランダ東インド会社」との競争に負けインドに力を集中することになる。インドではカルカッタ、マドラス、ボンベイ (ムンバイ) に拠点を置いた。イギリスは「フランス東インド会社」との競争に勝ってインド全域を手中に収めた。「ナポレオン戦争」の後は再び東南アジア (マレー半島) に進出し、ペナン島、マラッカをはじめとする元オランダ領東インドの各地および、シンガポールを手に入れて、1826年、これら 三つの植民地を統合して「海峡植民地」とした。

 1819年「イギリス東インド会社」のラッフルズは、東西貿易の中継地を求めて「人口」わずか数百人 (一説に150人) のシンガポールに上陸した。数年後にはイギリスの旗の下、シンガポールはイギリスにとって、マレー半島植民地化の基地となっていたのである。

 サマセット・モームが滞在したことで有名な「ラッフルズ・ホテル」はラッフルズの名前にちなみ、1886年にオープンした。


アヘン戦争

 18世紀以降には、清国 (中国) の広東とも貿易を始め、この時の主要な貿易品目が「アヘン」であった。清国は「アヘン」の弊害を見て、何とかこれを禁止しようとしたが上手く行かず、特命された大臣 林則徐は 1839年、「アヘン商人」たちに《今後 一切アヘンを持ち込まない》という「誓約書」を出す事を要求し、イギリス商人が持っていた「アヘン」を没収し、これをまとめて焼却処分した。この時の「アヘン」の総量は 1400トンを越えた。その後も「誓約書」を提出しない「アヘン商人」たちを港から退去させた (アメリカ商人は「誓約書」をすぐに提出して巨利を得ていた) 。

 イギリスはこれに対して直ちに戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相 ウィリアム・グラッドストンなどが「恥さらしな戦争だ」として反対したが、賛成 271票、反対 262票の《僅差》で承認された。1842年に清国の敗北を認める条約が両国によって調印された。

 イギリスがこれだけ「アヘン」に拘ったのは、当時のイギリスでは「喫茶」の風習が上流階級の間で広がり、茶・陶磁器・絹を大量に清国から輸入していたが、逆にイギリスから清国へ輸出できるものが少なくて、イギリスの《大幅な輸入超過》だったからである。

 そこでイギリスが目を付けたのが、インドで栽培させた「アヘン」を仕入れ、これを清国に「密輸出」する事で超過分を相殺し、「三角貿易」をすることであった。これによってイギリスは「空荷」で舟を運行する必要が無くなったのである。

 イギリスは「アヘン戦争」に勝って「多額の賠償金」と「香港の割譲」を授けると共に、広東・厦門・福州・寧波・上海の「開港」を認められ、「治外法権」、「関税自主権の放棄」、「最恵国待遇条項」の承認を獲得した。しかしこれらを定めた「条約」は、戦争の原因となった「アヘン」については特には触れていなかった。さすがのイギリスも、戦争の真の原因を《文書上に残す》ことに躊躇したためと言われている。

 しかし、「イギリス製の靴下」を中国に輸出しようという望みは叶わなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これが「第二次アヘン戦争」とも言われる 1859年の「アロー戦争」へとつながって行くことになったと言われている。

 この時に、「アヘン貿易」で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリスに送金するために、「ロスチャイルド 一族」のユダヤ系イギリス人 アーサー・サッスーンが設立したのが「HSBC (香港上海銀行) 」である。「HSBC」は現在でも健在で、日本にも支店をだしているのでご存知の方も多いだろう。

 そして 1857年~ 1859年の「インド大反乱」… シパーヒー (セポイ) の乱、第一次インド独立戦争とも言う … が起る。


セポイの乱

 イギリスはインドを、原料供給地であるとともに、自国の綿製品を売り込む市場としたので、インドの資源はイギリスに吸い取られ、インド国内は混乱するとと同時に《土着》の綿工業は急激に衰退した。このため多くのインド人がイギリスへの「反感」を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。そのためこの「大反乱」は、インドで初めての「民族的反乱」とされている。

 この「大反乱」は、1857年 5月にインド北部の都市で シパーヒー (sipahi) が蜂起したことに始まる。シパーヒーとは「イギリス東インド会社」が編成したインド人傭兵のことで、セポイ (sepoy) とも言わた。多くは「ヒンドゥー教徒」と「イスラム教徒」から成っていた。彼らが「反乱」を起こした直接的な原因は、イギリス軍が新たに採用した銃の薬莢に「ヒンドゥー教徒」が神聖視する牛の脂と、「イスラム教徒」が不浄と見做している豚の脂が使われていたためであった。

 当時の薬莢は紙製であり、弾薬には「防湿油」ないし「潤滑油」として動物性脂が塗られていたが、弾丸を装填する場合には、まず口で弾薬の端を食い千切らなければならなかったため、彼らは戦闘時に「宗教的禁忌」=「牛または豚を口にすること」を犯すことになる。彼らはこれを「宗教的侮辱」と受け取り弾薬の使用を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。こうした処置に怒ったシパーヒーは、ついに「反乱」を起こすに至ったのである。

 翌 1858年には「イギリス東インド会社」の正規軍の反攻が始まり、反乱軍は鎮圧された。

 一方「イギリス東インド会社」は、インド人に「重税」をかけながら自分たちは汚職・着服によって莫大な私利を貪った。そのため会社の効率は落ち赤字決算が続き、再々「本国政府」に援助を依頼することとなった。イギリス政府は 一介の会社に広大なインドの領土を託すことの限界を痛感し、会社を解散させて「直接統治」することにした。これにより、インドの支配権は ヴィクトリア女王 (1819 – 1901) に返上され、「イギリス東インド会社」は 1874年に解散、274年の歴史の幕を閉じた。


日本人傭兵

「イギリス東インド会社」には多くの日本人が傭兵として働いていた。「鎖国」が始まって日本に帰れなくなった海外在住の日本の武士が多数いたのと、さらには「鎖国」を嫌って海外に脱出した武士がいたものと思われる。ピーター・ウォーレン・シンガーによると「イギリス東インド会社」の傭兵の半数は日本人であったとのことである。

 なかでも有名なのが「アンボイナ (アンボン) 事件」である。これは、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島 (アンボン島:クローブなどの香料の産地) にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占してイギリスはインドへ矛先を向けることとなった。

 この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。

 1623年 2月 23日の夜、オランダ側の傭兵 七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が 七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長 ガブリエル・タワーソンら 30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め … 水責め … 四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。

 3月 9日、オランダ当局は タワーソンをはじめイギリス人 10名、日本人 9名、ポルトガル人 1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。

 それに先立つ 1613年、イギリス東インド派遣船司令官 ジョン・セーリスが日本からバンテンに帰港した時、日本人水夫 15名を雇い入れている。その後 1617年、リチャー ド・ウイッカムは平戸を去るにあたり日本人 11名を伴い、他のイギリス船でも 14名が渡航している。1621年、商館長 コックスの 8月 3日の日記には「給料支払い」の記述がある。

The Moon 乗り組   善三、三四郎、久七
The Bull 乗り組   久左、 マチヤス、五郎作
The Elizabeth 乗り組   忠七郎、仙五郎、儀八

 イギリス人に雇われて海外に出た邦人が、かなりいたことがわかる。

 1617年 7月 19日、市場での些細な両国商館員の諍いから、オランダ商館次席が日本人を含む 20名を連れて急行して害を与えたのに、イギリス側も雇員の日本人・バンダ人を引き連れてオランダ館を急襲し、黒人 1名を殺害し 4名 (日本人 1名を含む) に重傷を負わせた。バタヴィア政庁は ピーテル・デカルベンチールを バンテン王に差し向け、イギリス人の不法行為を糾弾した。

 この事件が決着しない内の 11月 22日に再び悶着が起こって、互いに相手を殺傷するまでに発展し、イギリス側は 200人でオランダ商館を襲撃した。オランダ人の大半は遁走したが、踏みとどまった日本人 5名は防戦して 1名が死亡、4名が重傷を負った。殺害された日本人の中には「カピタン」がいたと言う。

 バンテン王は「外出差し控え勧告」を出したが、この事からも同地の両国商館に雇用される日本人は 30~ 50名にものぼり、カピタンにも選任されていたことが判明する。その後両国は互いに物資搬入を妨害し合い、1621年、命令違反して出港した日本人 12名が捕えられ殺されたり、同 33年、オランダ艦隊のバンテン港封鎖で数名の日本人船が拿捕されたり、自ら商船を操って独力活動した者もあった。

 同年 9月 9日、イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に 一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため多数の戦傷者を出したと報告されている。

 オランダ軍の出動に対抗して、フィリピンの ドン・フアン・デシルバ長官が 15隻からなる艦隊をモルッカ遠征に組織した際、マニラ在住日本人 500名が応募して従軍したがその管理に手を焼き、シンガポールで解雇し陸上に追放してしまった。

 オランダ方面軍の報告には再三にわたって、日本人傭兵や大工・石 工・鍛冶職の狡猾 … 制御困難 … 危険性を指摘しているから、少なからざる日本人が雇用されていたのが判明する。1617年 8月 12日のテルナテ島マライユのオランダ駐在員決議録には、「今度のエーンドラハトで当地に来る日本人には《頭領》を置き、それを互選させることが適当」と記している。

 フレデリック・ハウトマン知事 (1621年) の名簿にも、オランダ人 40名、マルダイケル 25名、日本人 20名の名簿があり、「カラマタ城塞篭城戦」では、イスパニア側戦死 11、負傷 40。オランダは、オランダ人 7名、日本人 3名戦死、20名が負傷している。

 斬首された日本人は下記の通りである。

七蔵 (Hytieso) 24 平戸 傭兵
シドニイ・ミゲル (Sidney Migiel) 23 長崎 アンボン英国商館雇員
ペドロ・コンギ (Pedro Congie) 31 長崎 Conje Congey
トメ・コレア (Them Corea) 50 長崎 朝鮮系?
長左 (Tsiosa) 32 平戸 傭兵
久太夫 (Quiondayo) 32 唐津 傭兵
神三 (Sinsa) 32 平戸 傭兵
左兵太 (Tsavinda) 32 筑後 傭兵
三忠 (Sanchoe) 22 肥前 傭兵
ソイシモ (Soysimo) 26 平戸 傭兵
作兵衛 (Sacoube) 40 平戸 傭兵

(最後の 二名は後に釈放)

 ヤン・ヨーステン、ピーテル・ファン・サンテンによると、日本人は常時刀を 二本帯びていたこと、彼らもマレー・ポルトガル語を話すことを述べている。また事件後も日本人が 30名程がいたと言っている。

 アンボイナ守備隊名簿には 五郎作、ヨウスト (Jouste) 、長崎の Louis、庄三郎、堺の孫六などの名前がある。

 

 

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