お詫びと訂正と「多摩」の地名考察

 以前、「武蔵国」の地名の由来について下らない能書きを垂れたことがありましたが、何のことはない…

无射志(ムサシ)

…という呼び名がそもそもあったワケで、それを…「武蔵(ムサシ)」は「武者地(ムシャチ)」が転訛したもの…と、こじ付けていた自分が恥ずかしw。
 

无射志国荏原評銘文字瓦
川崎市教育委員会HPより

无射志国荏原評銘文字瓦

年代
7世紀後半
法量
長さ31.4cm、幅23.8cm、厚さ2.1cm(現状)
所有者
川崎市
所在地
中原区等々力1-2(市民ミュージアム)
指定
市重要歴史記念物 平成15年4月22日
解説
 本文字瓦は、昭和52年~56年度に実施した川崎市高津区影向寺文化財総合調査の発掘調査で、影向寺薬師堂西側に設定したトレンチ内から発見された平瓦(女瓦)である。

 同じ瓦の小破片13点が接合されたもので、大きさは長さ約31.4cm、幅約23.8cm、厚さ約2.1cmであるが、焼成は不良で、全体的に脆弱であり、全体の約3分の1は欠損している。この瓦凸面のほぼ中央部に「无射志国荏原評」の文字が判読できる。文字は、焼成前に箆(へら)ないし箆(へら)のような工具類で刻まれたと推定される。文字の字体は、かなり文字慣れした人の手によるものと思われ、軽快で端正な筆致で書かれている。7世紀第3四半期と想定される千葉県印旛郡栄町の龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土の文字瓦と比較すれば、本文字瓦に刻まれた文字の洗練さがよく理解できる。

 「无射志」の表記は、『古事記』(上巻)に「无射志国造」、『万葉集』(3376、3379)に「无射志野」という類似表記が見え、いずれも「むざし」と読む。「无射志」は、後に一般的に「武蔵」の2字で表記されるようになる武蔵国の「武蔵」である。また、「荏原評」の「荏原」は、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたり、現在の東京都品川区・大田区・目黒区・世田谷区の範囲である。したがって、「无射志国荏原評」の銘文は、「むざしのくにのえばらこおり」と読むことができる。

 この銘文の特徴は、荏原評の「評」の字と「荏原」の地名にある。「評」は、7世紀半ば頃から施行された国の下位に位置する地方行政組織名で、大宝元年(701)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等に見られ、大宝令によって「郡」に改められた。「評」と「郡」の字は、両者とも「こおり」と読む。また、「无射志国荏原評」のような「国評」の記載は、現在のところ、奈良文化財研究所飛鳥藤原京跡発掘調査部による石神遺跡第15次発掘調査によって出土した「乙丑年十二月三野国ム下評」の木簡が最古である。「乙丑年」は、天智4年(665)であり、「三野国ム下評」は、後の美濃国武芸郡にあたる。以上のことから、本文字瓦が刻まれた時期は7世紀後半に想定され、年代観は本文字瓦の制作年代とも一致している。

 本文字瓦が出土した影向寺は、寺院に伝わる宝永7年(1710)の「影向寺仮名縁起」によると、天平12年(740)に僧侶の行基によって建立された伝承をもつ古刹である。ところが、これまでの発掘調査の結果、影向寺の創建が7世紀末~8世紀初頭の時期(第1期)であると指摘されている。ただし、はやや遅れて8世紀中葉(第2期)に建てられたとされる。この第2期は、天平13年(741)に聖武天皇によって発布された国分寺建立の詔以降の時期にあたる。

 各時期における寺院の特徴としては、

1. 第1期の白鳳期に建立された古代寺院は、有力氏族の持仏堂程度の堂舎
2. 第2期は、橘樹郡の鎮護平安を祈願する「郡寺」

であった可能性が高いとされている。

 この度出土した本文字瓦の「荏原評」の銘文によって、寺院建立が7世紀後半であることが明白となった。

 次に「荏原評」の地名の問題である。本文字瓦の出土した影向寺は、武蔵国橘樹郡(大宝令施行以前は「橘樹評」で、現在は宮前区野川420)にあり、本文字瓦の評名「荏原評」とは評の名称が異なっている。影向寺は、通称影向寺台と呼ばれる台地上に立地するが、影向寺の東方約300mに位置する千年伊勢山台北遺跡(現、高津区千年)から橘樹郡家の正倉と推定される遺構が検出されており、この周辺域に橘樹郡家が所在している可能性が推定されている。

 この事実は、本文字瓦が影向寺の所在する橘樹評(後の橘樹郡)ではなく、北東に隣接する荏原評からもたらされた瓦であったことを示している。すでに影向寺境内からは、「都」と箆(へら)書きされた文字瓦が2点採集されており、東京都国分寺市の武蔵国分寺の文字瓦との比較から、西に隣接している都筑郡から橘樹郡にもたらされた第2期の瓦と考えられる。このことから、7世紀後半に、隣接する荏原評から本文字瓦がもたらされた事実が明確になった。

 荏原評から送られた本文字瓦が、橘樹評の影向寺で出土した理由として、次の二つの理由が推定される。第一は、影向寺の創建にあたり、隣接する荏原評に税制(この場合は、おそらく持統3年(689)に施行された飛鳥浄御原令に基づく税制)を含めた何らかの負担が要請されたこと。第二に、影向寺の建立に、隣接する荏原評の知識(善知識)的な要因で瓦が寄進されたことである。この場合、影向寺が知識寺的な性格をもっていたことになるが、その理由を断定する根拠はなく、むしろ7世紀後半では両者を截然と区別することは不可能かもしれない。

 本文字瓦の出土で明らかになったことは、7世紀後半の橘樹評における寺院建立に際し、隣接する荏原評から平瓦が搬入されていた事実である。橘樹評という1行政区画ではなく、広く武蔵国南部の評から協力・支援を得て、影向寺が創建されたのである。つまり影向寺は、橘樹評に居住していた有力氏族が自らの財力だけで建立したというような性格の寺院ではないといえる。したがって影向寺の考察においては、行政的側面や仏教における知識的要素を考慮する必要が生じることになった。こうした重要な事実を示した本文字瓦は、古代南武蔵の歴史を知る上で極めて重要であり、考古学ばかりか、歴史学・宗教史・文化史・建築史上、価値の高い資料である。
 
参考資料
『神奈川県指定重要文化財影向寺薬師堂保存修理工事報告書[基壇部記録調査編]』
『千葉県印旛郡栄町龍角寺五斗蒔瓦窯跡』

 
 

行基 – Wikipedia

行基(ぎょうき/ぎょうぎ) 天智天皇7年(668年) – 天平21年2月2日(749年2月23日)は、日本の奈良時代の高僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。

また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた

しかし、朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。

その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺など)建立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

出自
高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後の和泉国)大鳥郡に生まれる。生家は後に行基によって家原寺に改められた場所で現在の大阪府堺市家原寺町にあった。

生涯
河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市家原寺町)に生まれる。682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年(大宝4年)に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。

民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われたこと、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされたことから、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、731年(天平3年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。

736年(天平8年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。738年(天平10年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている。)

(中略)

この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされ、日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在する。
 


行基図

 
 

无邪志国造 – Wikipedia

祖先
建比良鳥命。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。成務朝に二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が无邪志国造に任じられたという。

 

大宝律令 – Wikipedia

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。

大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。大宝律令において初めて日本の国号が定められた。

 
 「大宝律令」の施行以降に地方行政区分が「評」⇒「郡」へと変更されるワケですから、高津区で発見された「評瓦」は701年より前に製造されたものであり、「ムサシ」の地名も当然それ以前から。

 で、どのくらい前から?という話になると、第13代成務天皇の時代に「国造」が派遣されたのであれば、「大宝律令」制定時の第42代文武天皇の30代前に遡り、一代の天皇の平均在位期間を10年と見積もっておよそ300年前、AD400年頃…5世紀初頭に、「无邪志国(武蔵国)」が造られたことになります。
 

国造 – Wikipedia

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

 
 「大宝律令」によって「郡(こおり)」が置かれる以前から、「評(こおり)」が存在していたことは紛れもない事実なのですが、『日本書紀』や『万葉集』には「評」の存在を消した痕跡が見られるらしく、「評」の成立時期を確認することは困難です。見方を変えれば、「日本国」が「倭国」に成りすますには、「倭国」の痕跡である「評」の存在を隠蔽する必要があったのかも知れません。

 さらに発想を飛躍させると、前回述べたように「日本国」の東端は濃尾平野までだとしたら、さらに東にある「无射志国」に「倭国」の勢力が伸びていたというのも、だいぶ無理がある話しのように思われます。
 


NHKスペシャル「日本人はるかな旅」より

 
 ならばどう考えるか?その答えのひとつとして、「評」は渡来人(主に朝鮮半島系)の居留地区として、独自に存在していたとも考えられます。
 

評 – Wikipedia

なお、中国正史には、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこおり)」という地名が登場することから、本居宣長や白鳥庫吉は、「評」という字や「こほり(こおり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するという説を唱えていた。

 

高麗若光 – Wikipedia

霊亀2年(716年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させているが、若光もその一員として移住したものと推定されている。

 
 「大宝律令」が施行される以前から、朝鮮半島からの渡来人(百済、新羅、高句麗)は全国各地に移住していたワケで、そうした渡来人たちの集落が本国式の「評(こおり)」を称し、周辺の土着豪族がそれに倣ったとしても何の不思議もありません。つまり「評」は、「中央」とは無関係な各地域独自の「自治区」であったとも考えられるワケです。

 そ・こ・で…ワタシの地元、「多摩」の話になるワケですが、『新編武蔵風土記稿』『日本書紀』などによると古くは「多氷」という地名が見られ、一説によると、「多氷」は「多末」の誤記であり、「多末」が「多摩」の語源だろうとされています。

 しかし、先の「評」の話を鑑みるに「評」は「こおり」とも読むワケですから、「多氷」=「多評」なんじゃないの?という話しになり、さらに「多」一字が意味するものは何か?と考えると、単純に「多氏」が思い浮かびます。
 
多氏 – Wikipedia
 

31.多氏考

(前略)

「太安麻呂」という人物が「多氏」の中では最も有名な人物である。例の『古事記』を編纂したとされている人物である。ところが『古事記』は偽書である、という説が古来からある。

現在も厳然とそれを主張している学者もある。よって『古事記』を編纂したという「太安麻呂」なる人物も実在性が疑われてきた。ところが全くの偶然であったが1979年(昭和54年)に奈良市の茶畑の中から「太安麻呂」の墓誌が出てきた。歴史ファンは興奮した。ところが今度はその墓碑が偽造ではないかとの説も新たに出された。

「総てを疑うところから歴史の真実が見えてくる」、と何方かが言ったそうだが、1,000年以上も前のことを史実と認定するのにどれだけの証拠が必要なのか。

話は横道にずれたが、多氏を論じるとき非常に難しい問題が背景にあることだけは理解しているつもりである。

多氏の派生氏族として有名なのは、九州の「阿蘇氏」と信州の「金刺氏」である。前者は阿蘇神社に関係し、後者は諏訪神社に関係する氏族で共に、後年多くの戦国武将 を生み出した親氏族である。また四国、奥州、房総半島付近にも一族が繁茂したとされている。

多くの国造家を輩出したのでその流れがそれぞれの地域で勢力を持ったものと思われる。

中央で活躍をしたのが「多神社」で有名な大和に拠点をおいた多氏である。その嫡流が前述の太安麻呂とされており、その末裔は楽家多氏として栄えた。

(後略)

 
 「多評」=多氏の自治区であったとして、後から付け加えられた「磨、摩」は何を意味するのか?という疑問に発展するワケですが、ここで「大宝律令」が絡んできます。

 霊亀2年(716年)に、多摩地区の近くに1799人もの「高麗」の渡来民が集められたことが『続日本書紀』に記されており、もし、「多氏」と「高麗渡来民」の一部が混在した地域が存在したとすればと、「多氏」の「多」と「高麗」の「麗」を繋ぎ合わせ、「多麗」と書いて「タ・マ」と読む「郡」が誕生したことも考えられるワケです。

 したがってワタシの推論としては、「多麗」⇒「多摩」という地名は「大宝律令」以降につけられたものであり、それ以前は「多評(多氷)」という地名であった…ということになります。
 

 


多摩郡と高麗郡の位置関係

 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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